いつものJSTVで、NHKの番組「たけしアートビート」を放映しており、今日の主役は全盲のピアニスト辻井伸行さんでした。
ビートたけしが辻井さんの紹介をするという内容で、絶対音感の話とか、たけしがデタラメに弾いたピアノを彼がすぐに真似をするとか、即興で曲を弾いてもらうとか、番組そのものは他愛もないものでした。
たけしがはしゃぎすぎている感じが、あまり好ましく感じませんでしたね。
辻井氏(現在22歳)は生まれながらの全盲で、母親が彼の音楽への才能に気づき、それを信じてピアノの英才教育を受けさせたことから、さまざまな国際的コンクールで優勝し、プロのピアニストとして活躍されています。
以前にテレビ(たぶん報道ステーション)で、辻井氏のことは見たことがありました。
Wikipediaで彼のことを調べて、お母さんである辻井いつ子さんのサイトに飛んでみました。
http://kosodate-hiroba.net/index.html
ほんの少ししか読んでいませんが、そこのHomeページに書かれていることばが目に止まりました。
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わが子に対して、
「容姿がいいからモデルになれるかも…」
「表現力があるから劇団に入れようかな…」
「運動神経がいいから、サッカーをやらせてみようか…」
などなど、親の想いはさまざまです。
こんなとき、子どもときちっと話し合い、
その「道」を作ってあげるのが親の役目なのだと感じます。
「子どもの自主性に任せる」というケースももちろんあるのですが、
幼いころは親が気づき、さまざまな体験をさせたり、
レールを作ったりすることが、
とても大切です。
伸行はあとあと雑誌のインタビューで、
こう話していました。
「母は、僕が幼いころから目が見えないのに
美術館に連れていって、 絵についてたくさん説明してくれました。
今思えば、こういうことを経験させてもらったのが大きかった」
才能のない子なんて
この世にいない
「うちの子にはなんの才能もないのですが・・・」
ときどきこうおっしゃる方がいます。
でも、私はどんな子にも才能があると信じています。
そして、それを最大限引き出してあげるのが
親の役目なのではないでしょうか。
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これを読んで思うことが2つあります。
・才能のない子なんてこの世にいない・・・
「才能」という言葉の定義をどうとらえるかですが・・・、
誰にもどこかに、人より少しは秀でた部分があるというくらいのものを「才能」と呼ぶのであれば、それを伸ばしてやることが親の役目ということにおおいに賛同します。
一方で、もし辻井伸行氏のように例えば国際コンクールで優勝するようなレベルまでのことを「才能」と呼ぶのであれば、実もふたもないことを言うようですが、本人の努力・親の協力だけではなく、やはり持って生まれた突出した才能も必要と思います。
子どもが持っているのはそこそこレベルの才能に過ぎないなのに、親が必死になって日本レベル世界レベルまで期待しすぎて、子どもをつぶしてしまうことが結構あるのではないかと危惧します。
辻井氏やイチローのように、成功者の生い立ちを見ると、親も一緒になって並外れた努力をしたことがわかるので、努力すればそのレベルになるのだと錯覚する人が多くいると思いますが、彼らにはやはり生まれつきの才能も備わっていたに違いありません。
辻井氏やイチロー以上に努力したのに結果を残せていない人は何千、何万人もいて、でもそういう人は誰も報道しないから、存在が誰にも知られていないだけでしょう。
逆に、せっかく生まれつき突出した才能を持っていたのに、親がそれを引き出さなかったためにその才能が生かせなかった人もまた何千、何万人もいるでしょうね。
場合分けして整理すると、こんな感じ。
親のこどもへの期待 こどもの生まれつきの才能 結果
A 平凡 平凡 平凡
B 平凡 突出 平凡 (残念ながら。しかし気づかない。)
C 突出 平凡 悲劇
D 突出 突出 突出 (ごく少数。)
さてさて、うちの子どもたちはどうでしょうか・・・?
・辻井いつ子氏の書かれている文章で「それを最大限引き出してあげるのが親の役目」と「引き出す」という言葉を使われているのは、いいなと思いました。
英語のeducationは、動詞のeduceの名詞形で、"e"は"外へ"、duce"は"導く"という意味なので、この言葉は、まさに子どもが持っている才能を引き出すという意味です。(というのは、受験英語で知りました。)
これを日本語では「教育」と訳しています。「教え、育てる」ですから、完全に上から目線ですね。子どもがもともと何らかの才能を持っているなどということは考慮に入れず、大人が押し付ける言葉です。
言葉というのは難しいもので、「education」と「教育」とは同じ意味で使っているはずでも、心の奥底ではそれぞれの語感から、全く違う心の動きを無意識に感じていると思います。
もしもeducationの訳語が「教育」ではなく語感に忠実に「抽出」とでもされて、「学校教育」「教育者」「教育委員会」ではなく「学校抽出」「抽出者」「抽出委員会」にでもなっていたら、日本の親や学校の教育(抽出?)もずいぶん違ったものになっていたのでは、と想像します。
多分、英語のネイティブがeducationという言葉を使うときには、いつも無意識のうちにこのような語感に引っ張られながら使っているのでしょう。
で、やっぱり大人がこどもに対して行うべきことは、上から目線の教育ではなく、辻井いく子さんがいうように「引き出す」ことですね。
自分に対しての反省をこめて。