アルジャジーラはカタールに本社のある衛星テレビ局で、「アラブ諸国で、最も自由で最も広い観点を持つテレビネットワーク」と評され、また「中東のCNN」とも呼ばれています。湾岸戦争の報道で日本でも有名になりました。
ブログを書いていたので、つけてもほとんど見てなかったのですが、チャンネルを替えてから10分くらいで、テレビから日本語が聞こえてきました(また不思議な偶然!?)。不思議なもので、日本語だとすぐ耳につきます。
なにやら日本人のおじいさんの映像。そこから集中して観ると、広島に原爆が落とされたときに被曝した医師で、肥田(ひだ)舜太郎という方を取材した番組でした。
あとで調べてみると、Wikipediaには直接の記載がありませんでした。
Amazonでの著者紹介によると以下のようです。
肥田 舜太郎
1917年、広島市生まれ。1943年、日本大学専門部医学科卒業。1945年8月6日、原爆被爆。直後から被爆者救援・治療にあたり、2009年の引退 まで被爆者の診察を続ける。1953年、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。1975年以降、欧米を中心に計30数カ国を海外遊説、被爆医師として被爆の実相を語りつつ、核兵器廃絶 を訴える。
番組では、まず原爆投下直後の悲惨な状況を肥田医師が語られました。
そして、アメリカのABCC(Atomic Bomb Casualty Commission、原爆傷害調査委員会、原子爆弾による傷害の実態を調査記録するために、アメリカが設置した機関)の行ったことを語られます。
このとき、米国が撮影した、被曝で大きな傷を負った方々のビデオ映像が流されました。
顔にひどいやけどをした女性、被曝したときに衣服がはだけていた形とおぼしきV字型にやけどをした男性、ベッドに寝たまま無表情に与えられた食事を口にする患者・・・。
目をそむけたくなるような悲惨な記録映像で、日本のテレビでは決して放送されることはないでしょう。
ABCCは、放射線被爆の人体に対する影響調査を行うことが目的で、そこで働いていた日本人たちにも口を閉ざすように命令しました。
被爆者たちは、ケロイドという外的被害だけでなく、次第に内部被曝による健康障害が出てくる人も増え、その上差別にもあいました。闘いの結果、法律(被爆者援護法)ができ、被爆者手帳を交付されるようになった、と。
肥田氏は、90歳を越えた今も医者として医療を続けれられています。また、被爆者の団体を主宰しておられます。放送では、医者としての活動や、被爆者の集まり(ささやかな食事会)を取材した映像も流されていました。
この放送は、アルジャジーラの独自番組のようでした。番組の最後にアルジャジーラのトレードマークが出て終了しました。日本の番組を買ったためにNHKのロゴが出るなどということはなかったと思います。
なぜ、今この番組が放送されたのかはわかりません。昔の映像の再放送かどうかも。
福島第一原発の事故と関係があるかもしれませんが、直接それに触れることはありませんでした。
むしろ、広島への原爆投下日(8/6)が近づいているのにあわせた放送でしょうか。
それにしても力の入った番組でした。
アルジャジーラ、やるなぁ、と感じた次第です。
放送が終わってから調べてわかったことをいくつか。
(1) 「医師が見た被爆者の生と死~原爆被害、隠蔽と放置の12年間~」という記事がありました。
2000年9月に埼玉県で行われた講演会の内容です。今回私が見た放送と重なる部分が多いです。
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/gakusyuu00.html
非常に長い講演記録ですが、ごく一部だけ、引用します。ぜひ元記事をお読みください。
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私が一番、最初に被爆者の死にぶつかったのは1945年8月6日、原爆投下の1-2時間後でした。私はその日の早朝、たまたま6キロ離れた戸坂という村の農家に往診に出ていて被爆しました。藁葺屋根の農家は潰れましたが、火傷も怪我もせず、壊れた農家から這い出て、きのこ雲の立ち上る広島市内へ引き返しました。太田川の川沿いの道を、市内までちょうど半分のあたりで、市内から逃れてきた最初のその人に会ったのです。
遠くから見た時は、 人間だと思いませんせした。近くで見ても人間には見えませんでした。真っ黒に焦げたドロドロの肉の塊で、腫れあがった大きな目と、口が顔の下半分の恐ろしい形相。それが私に手をのばして、目の前でばったり倒れました、あっ、人間だったと思って、近寄って「しっかりしてください」と言ったのは覚えていますが、あとは声もでなかった。脈をとろうとしましたが、手首には皮膚がない。この人、ぼろを着ていると思っていたら素っ裸で、剥がれた皮膚がぼろのように垂れ下がっているのです。おろおろしているうちに、ぴくぴくっと痙攣して、うごかなくなりました。それが私の見た最初の被爆者の死でした。
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これと同様の話が、アルジャジーラでも放送されていました。
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以上のように私は多くの被爆者を診てきましたが、私が印象に残っている被爆者の死を綴ってゆくと、直接、高線量のピカにやられて、「あれじゃ助かりようはない」という死に方よりも、後から入市したとか、遠距離で僅かしかピカを浴びなかった、所謂、残留放射能に被爆して遅くなって死んで行ったという症例が多く、原爆で殺されたと証明する方法がない、口惜しい,歯がゆい死に方をした被爆者が強く印象に残っています。考えてみると、被爆者には、ひと目で被爆者と分る火傷跡やケロイドの目立つ障害者よりも、何んとも言いようのない不運を背負って、連れ合いからも,身内からも甲斐性なし、怠け者と思われながら、あまり幸せでない人生を歩かされてきた人たちの方が多かったように思われます。
ピカを生き延びた被爆者がこうした不幸な死への道をたどらざるを得なかったのは、第一に、アメリカが対ソ戦略上の理由から、原爆被害の放射線障害をプレスコードをしいて隠し続け、被爆者に最も必要だった障害の研究と、治療法の開発の道を閉ざしたこと。第二には日本政府がアメリカの理不尽な圧力に屈して十二年間、社会の底辺で苦しむ被爆者を全く放置したことによると私は確信しています。
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(2) 被曝医師・肥田舜太郎さんが語る『真実の原子力』
http://blogs.yahoo.co.jp/mxx941/3924107.html
こちらには、94歳にして福島原発の事故に対して原発反対の講演をされている動画がありました。
その生き方には尊敬を惜しみませんが、個人的には、やはり原爆と原発事故とは起きたことが異なると思うなど意見の相違もありますので、あえて私のブログには貼り付けず、紹介にとどめます。
原爆は市民の殺戮を目的としていますので、何も遮蔽することなく、核反応を起こします。したがって、ウランや放射性のプルトニウムも、市内にばらまかれたはずです。
プルトニウムはアルファ線を出します。アルファ線はヘリウムの原子核であり、紙1枚でも遮蔽できますので、衣服などでも直接の放射線被害は防げます。
一方で、ホコリなどからプルトニウムを体内に取り入れてしまうと、その半減期が24,000年、生物学的半減期も20年とか50年とかですので、まさに体の内部から被曝して遺伝子を傷つけ、長い期間を経てガンを引き起こす可能性が高まります。広島ではこんなことが起きたでしょう。
福島第一原発の事故では、ベントを行ったことでガス状で放出されるヨウ素やセシウムの放出は多かったですが、沸点のきわめて高いプルトニウムの放出は抑えられており、原発敷地内で先日見つかった1号機配管の部分など、限定的だっただろうと(やや希望的かもしれませんが)推定します。
私は、だから原発は安全と言っているわけではなく、また低線量被曝は健康に全く害がないと言っているわけでもなく、ただ原爆と原発はそれぞれが大きな問題ではあるものの、何でも一緒に考えてしまうことは科学的でないといいたいのです。
そして、何よりの朗報は、皮肉なことですが、肥田医師がお元気なこと。
この方、原爆の被爆者で、直接の放射線被曝も内部被曝もされているはずですが、94歳にしてまだまだ元気。
ガンになるのは確率的な問題の話であり、一人の元気な方がおられるだけでだから安全・大丈夫などというのはこれまた大間違いですが、それでも心配しすぎる人への精神安定剤くらいの効果はあるでしょう。
下の本は、私は未読ですが、鎌仲ひとみ氏(「ミツバチの羽音と地球の回転」監督)との共著です。
- 内部被曝の脅威 ちくま新書(541)/肥田 舜太郎
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