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古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

片貝村は近世には和泉田組に属した。深澤(ミサワ)の河口に開けている。深沢の左岸は急勾配で、右岸は開けていることから、片開とも書いたという古文書の地形地名が実情に合っているようだ。「カタッケイという貝が多く住んでいていつしかカタカイといわれる・・」(『山の散歩道』)という伝承は首肯し難い。

 

南東の界村から山に沿って流れ込んだ鹿水川が深澤に合流していて、水田化するのは相当困難だったようだ。深沢川河口流域の片貝、富山の石高の記録を見ると、片貝村文禄三年(1594)蒲生高目録では121石、文化15年(1818)村日記では128石、富山村も同147石→151石、さらにその西(下流)の下山村は296石→314石と214年間でほとんど変わっていない。鴇巣村の93石→292石、界村の251石→327石などの増加と比較すると違いが際立つ。それだけが原因ではないにしても、治水問題は深澤(片貝川)流域の村が稲作で伸び悩んでいることの大きな理由ではあるだろう。

 

春が来ましたね~木五倍子っていうんでしょうか?

 

現在水田になっている山寄りの地域に、トウアサ(由来不明)、ナカヤチ(中谷地)、オオフカ(大深)などの地名があり、山沿いに並ぶイナバシタ(稲場下タ)、岩ノ下、寺の下、宮の下などの地名の「下」は、指標になる物に面した地点という意味で「下」を使っているようで、利用されない湿地や水面を指している。集落東端の鹿水川が合流したあたりにドウマンガワラ(道万河原)もある。これはアイヌ語のトマム=湿地地名だと思われる。集落北側の山の端全域が、深沢から続く沼か湿地帯だったようだ。とはいえアイヌ語に不明なため、他にこの地域でアイヌ語らしい地名を見つけられないので、これと東集落のドウマンヅカだけをアイヌ語とするのには無理がある気もする。

 

大深の解説に「耕土数メートルの深きところは葦谷地であるといわれている。」(『里の散歩道』)とあり、また、山からやや離れた現国道下のカワクボ(川久保)の解説にも「耕土の下には数メートルの砂利の層が見られる。」とある。山際は葦谷地で、やや下った川久保は河原だったころの景色が見えてくる。この片貝川が北の山側を流れて下山沢と合流するので、その流れと伊南川とに挟まれて中洲状に小高くなったところが村だったことになる。水田は山側段丘上のゆるい斜面や丘状になった中腹などの限られた場所にしかない。現堤防のオオナカジマ(大中島)、富山のナカジマガワラ(中島川原)の地名はその名残となっている。富山に残るフナツキバ(船着場)は、伊南川を渡船するのではなく、反対の山側にある伊弥日子神社への参詣のためのものだという。このようなことは地名だけを眺めていては予想もできないことで、『山の散歩道』が豊かな情報を収めていることに感謝が尽きない。

『山の散歩道』片貝の山は深澤に沿う

 

シモネギヤ(下根木屋)、ネギヤムコウ(根木屋向)は「船久保城のふもとの集落、字石田は通称ネンギヤという。」(同前掲書)とある通り、船久保城(片貝愛宕山城)を維持するための「根小屋」の集落にちなんだ地名が転訛したものだ。根木屋向は現国道下で川だろう。「下」と同じ使い方で「向」を使っている。クラヤシキ(蔵屋敷)という小地名は現在字石田となっているが(『山散歩解説』)、これも根小屋の役割と関連しているだろう。

 

片貝の鎮守は於加美神社で、これは明治中頃の屋根葺替えの記録から。『新編会津風土記』では八龍神社となっている。八竜神の相殿に熊野宮があるのは、富山村境の地名に残る居村(イソン)の熊野神社を合祀したもの(享保十五年1730遷宮)。神社と並んで真言宗不動寺もある。これらも西北の片貝愛宕山城との関係があると思われる。

 

『新編』には片貝村の小名として東側の根木屋、宇和田(上田の意)の二つが挙げられていることから、現在は集落西端のイソン(居村)、イムラシタ(居村下)、熊野神社、熊ノ宮下のあたりが本村であったようだ(ここでも「下」は川面)。根木屋集落の発達によるのか、深澤の流路が変わったためか、『新編』編纂の頃には集落中心が東に移動している。

 

片貝村は明治八年に村名は片貝村のまま、西の富山村と合併した。明治二十二年には和泉田村、下山村、界村と合併して富田村となる。この「トミタ」という村名がどのように決まったのかまだ知らないが、「タ」は和泉田の「田」と思われる。「トミ」はどこから来たか?片貝村が合併した富山村の「トミ」では、片貝村の住民が納得しないような気がする。富山村は少し変わった歴史を経ていて(後述)、『山の散歩道』で地名を扱う上で気になっていた。

 

最近のニュースで、奈良の富雄丸山古墳から日本初の盾形銅鏡と、2mを超える蛇行剣の出土したニュースが配信された。蛇神(龍)=雷神=神剣を簡潔に表現する遺物だ。古墳に葬られた人物を象徴するものだったことだろう。『日本書紀』の神武東征の終盤で、ニギハヤヒが妻の兄であるナガスネヒコ(長脛彦)を殺して神武に服属する、その戦の舞台と目される地域での発見で注目される。ニギハヤヒは神武が熊野上陸の際、神のお告げにより神剣を神武に奉じたタカクラジ(高倉下)と同様、物部氏の祖とされ、物部氏と剣のつながりが強調される。

 

 

 

ところでニギハヤヒの妻ミカシキヤヒメは、またの名をナガスネビメまたの名をトミヤビメ(登美夜姫)という。また、この戦の中で神武に吉兆として現れる、光り輝くトビも登場する。トミ、トビがこの戦のキーワードとなっている。『古事記』ではトミノナガスネビコ(登美長脛彦)とされている。

この蛇行剣のニュースが、思いがけず「富山(トミヤマ)」の地名を考えるきっかけをくれた。

 

片貝の北東に戸屋山(トヤ966m)がある。伊南村白沢、新潟県阿賀町にも同名の山がある。西隣の下山に鳥越山、只見町布沢(フザア)に鳥屋(トヤ)山、只見町亀岡に金石ヶ鳥屋(トヤ)山、西会津町に鳥屋(トリヤ)山、などの山がある。その隣の河沼郡柳津町には鳥屋(トヤ)村があった(戸屋とも書く)。このような山が地図上に度々現れることが気になっていた。

 

「トヤ」は『地名用語語源辞典』では①栃木県方言に山の鞍部(タワ~トヤか)、③外屋で出屋敷(出作り)などの解説があるがどうだろう?他に山鳥猟の掛け小屋、献上のための鷹を確保する見張り小屋などの由来譚はあり、鷹については御巣鷹山や鷹(高)山、鷹ノ巣なども各地にあるが、これは幕藩体制下のようなので新しい。会津藩で鷹狩が盛んだったようにも思えない。今までの戸屋山、鳥屋山の考察はここで終わっていた。

 

トミヤマ地名をトミヤヒメとの関係で考えるのは、我ながら突飛な思いつきではあるが、他に突破口が考えられないので、この線で行ける所まで行ってみよう。

ニギハヤヒとタカクラジが共に物部氏の祖とされ、ニギハヤヒの妻となっていたトミヤヒメに『書紀』が「鳥見屋」の文字を宛てていることを重視してみたい。喜多方市に鳥見山(トリミヤマ)があり、柳津町の鳥屋村は戸屋とも書く。鳥屋、戸屋が鳥見屋と同義とは考えられないだろうか。大化の改新以降進められた地名表記の二字化、好字化により中の「見」が落ちて鳥屋(トヤ)になり、トヤの音から戸屋の表記は生まれたと考えることでこれらが繋がる。(アクロバット?)

 

古文書、文献にはないようだが、『里の散歩道』の富山の地名解説には、

「先祖は富沢口あたりに住みしが、後伊南川変遷により、この地に移ったと伝えられる。和泉田字富沢口あたりまで陸続きであり、一段高い耕地で畑や原野地帯であった。(中略)この中島川原は伊南川河川敷となる。」(中島川原の解説)、

「富山村の頃、富沢口に集落があったと伝えられ、富沢口南山側に安置されていたが・・・」(地蔵様の解説)

「現富山集落の裏山あたりを伊南川が流れていた頃は、和泉田地内富沢口付近で生活していた。」(『山散歩』富山集落の解説)など、伊南川の流路が変わったことにより村が無くなり、現在地へ移って来たという伝承がある。

『新編会津風土記』に記載の富山村は既に現在地であることから、これらの伝承がいつの事かは不明だが、天正十八年(1590)伊達政宗の会津侵攻の際に、和泉田河原崎城に最後まで残って時間を稼ぎ、城主を逃がして討死したという武将に富沢藤助の名があり、富沢の地名はこの時代よりも遡れそうだ。

 

伝説を証明するかのような集落の地理的な状況がある。東隣の片貝では山の地名が58ヶ所、西隣の下山は84ヶ所拾われているのに対して、富山はわずかに8ヶ所となっていて、集落に山はほとんど無い。山を生活の場にしていたこの地域では不自然なことであり、隣村との山をめぐる争い(薪炭材や刈敷など)も頻繁だったようだ。これは難民伝承の事情を裏付ける材料の一つにはなるだろう。現在は中島河原といわれる、富沢口にあった中洲のような地勢では田畑が主業にはなり難い。富沢は源流を大博多山(1314m)に持ち、距離も長く水量も豊富な大沢だから、その沢口にあれば出水の際には、それなりの結果は予想される。富沢口は現在の富山集落からは伊南川の対岸で、和泉田の東端になる。沢名はその源流の地名をとっていることも多いが、(例:荒海川=荒海山、大石沢=大石、伊南川=『新編』では桧枝岐川)富山の場合は逆になっていて、村名に対応した山名も見当たらない。しかし富沢と富山の地名対応は偶然とはできない。富沢口に住する以前に山に住んだのか、地図には記されていない通称「富山」が富沢水系にあるのか。(和泉田の地名にはそれらしきものは見えないが、沢名は多く拾われているのに較べて山名は少ない)。この村の人々は何を生業として暮らしていたのか。疑問ばかりがあふれる中で、トミヤマは「鳥見」という役割から来ているのでは、という妄想に駆られる。

 

廃寺の山門跡・本文無関係ですみません

 

柳津町の鳥屋村はこの地に伝わる「仙石太郎伝承」に登場する同町牧沢(旧牧沢村)にあり(前記事「伊佐須美神遷座と仙石太郎伝承の意味」参照)、鳥屋毘沙門天堂に村の名を残している。堂の付近には伊夜比古神社がある。式内社である越後弥彦山の弥彦神社を祀ったもので、祭神は天香山命(アメノカグヤマノミコト)、神武天皇に神剣を奉じたタカクラジの別名でもある。一方、弥彦山は銅山でもあり、天香山命=タカクラジの神としての属性は、神剣フツノミタマ(香取神宮・石上神宮の祭神)や七支刀に象徴される武器であり、鉄剣とそれを作り出す産鉄だと言える。神話や伝説では製塩や稲作を伝えたとされるが、これは塩釜や農具、土工具などの鉄器を伝えたことと同義と考えている。

 

富山村は伊南川沿いで唯一、伊弥日子神社を鎮守としている。富山村が気になっていた大きな理由だが、村人が屋敷神として奉斎していたものが鎮守となった。

「富山の伊弥日子神社には『奉樹 鰐口 界 天文二十年六月吉日敬白 八彦大明神御神前 小塩保次郎 藤原直義敬白』と刻された鰐口が伝わっている。天文二十年(1551)小塩保次郎が家神として越後の弥日子の神を分神して屋敷神として祀ったものが、鎮守となった。」(『南郷村郷土誌資料5』)とされるが、刻された「界」とはどういうことなのか、「富山」の文字もないことから、由来の信憑性は心もとない。

 

たたらの神、金屋子神は白鷺の姿で桂の木に降り、ヤマトタケルは死後に魂が白鳥となって飛び立つ、垂仁記では、物言わぬ皇子のホムツワケが鵠(白鳥か?)の声に初めて言葉を発しそうになり、部下が鵠を追って出雲にたどり着く。この章には登美の曙立王(トミノアケタツノミコ)や蛇であるヒナガヒメ、跛(アシナヘ)、盲(メシイ)、(踏鞴に携わる人の職業病)など意味深な登場人物が多くて手に余るが、ともかくこの神話が鳥取部(トトリベ)、鳥甘部(トリカヒベ)、品遅部(ホムチベ)、大湯坐(オオユエ)、若湯坐(ワカユエ)の職部を定める起源譚となる。後の三部は踏鞴製鉄との関連が指摘される職部でもあり、そうであれば鳥取部と鳥甘部も無関係ではないだろう。

 

このように白い大型の鳥は産鉄との関りが深い。前記事「祭神と伝承 その三」で谷川健一氏の『白鳥伝説』を引用したが再掲する。

「白い鳥の飛んでいくところが金属精錬の場所として相応しいと見られていた時代があったと思われる。」(P.443)これに私見として、白鳥の降りる湖沼、河川には砂鉄や渇鉄鉱が堆積、生成していることがその理由ではないかと加えた。そこに磁気を感じ取る鳥類の能力も関係すると想定できるものか、その辺は鳥類の器官に詳しい方にお任せしたい。

 

採鉱民は、そのような渡り鳥と鉄の関係を経験則として持っていて、羽を休める場所へと向かう渡り鳥の群れを季節ごとに観察し、追跡していたのではないだろうか。川が神の思いのままに蛇行して流れていた時代には、大小の沼や湾曲した砂州が至る所にあった。そのような流れのゆるい場所には比重によって砂鉄溜まりができる。そこを教えてくれる神の鳥としての白鳥を待ち望んで、そこに鳥見山(富山)と鳥見が必要とされた。というのは飛躍しすぎだろうか(だね)。

片貝、富山だけでなく下山(金山彦の板碑がある)も含め、富でもある鳥見を必要とした、鳥見屋姫以来の職能と文化を持っていたことが、合併村名に「トミ」を採用した遠因にあるような気がする。(おわり)