古代妄想 伝承 地名 歴史

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

福島県南会津町の地名と地名伝承・神社・祭神・伝説などを掘りながら、ここと繋がるどこか、今も繋がるなにかを探して、遠いふるさとの古代を妄想します。
ややこしい話が多いのにもかかわらず、お付き合いありがとうございます。

長らくお休みしていましたが別な地域のことがあったりしていました。また道草の成果もおいおいご紹介できればと思っています。どうぞよろしくお願いします。

 

 

これまでの経験から、下山(シモヤマ)のような一見単純に思える地名は、その命名を考察するのは困難なことがある。上、中、下、横、端などの地名は、その指標となるものを見出さないと命名の動機にまでたどり着かない。今回の下山は一つの村なので、その規模に見合った「上」、や「本」を川上に探してみたが適当な地名が見当たらない。唯一思いついたのは中世の山城を指標とした場合だった。

 

伊北郷の最南端の城が片貝の愛宕山と舟窪山の城とその中腹の館で、それぞれ遺跡がある。加えて山麓の根木屋(ネギヤ)=根小屋(山城の麓で城の補給などをする集落)、蔵屋敷(クラヤシキ)の地名、不動寺なども城との関連で考えられる。加えて片貝村は、村の発生段階の中心と思われる「居村(イソン)」、「居村下(イムラシタ)」、「熊野神社」の地名が集落西端にあり、山城への入り口となる深沢川河口付近の「根木屋向(ネギヤムコウ)」など、山城関連地名の方に中心部が移っている形跡がある。片貝の山城を指標とした場合には、川下の次の城が下山城ということになり、片貝より規模は小さいが館や曲輪などの構造は似通っている。

どちらも中腹の館までは地名伝承などに伝えられていたが、山頂部の城は忘れ去られていた。片貝城を本城としてその後に下山城が支城のような関係で作られたとすれば、「下山」の説明がつく。ただ地名の起源を山城に求めることになると、築城以前の時代の地名を伝える伝承がないかなどの宿題が増えることにはなる。

 

下山村は南を西流する伊南川の段丘上に、槍の穂先が西に向いたような、東西に細長い三角形で、その穂先にあたるところが伊南川から100mほどもそそりたつ(へつり)となっていて京路(キョウジベツリ)と呼ばれ、かつては伊南川の水流が激しくぶつかって削り出した地形だ。槍の穂の上辺(北側)を小山沢(オヤマザー・通称下山沢)が流れて京路岪にぶつかって伊南川に合する。古代には虻の宮の鹿水川(カナミズ)と片貝からの深沢(ミサワ)も(ある時は伊南川本流も?)小山沢に合流して富山、下山は中洲のようになっていたことがあったらしい。現代はその槍の中心線に国道289号線と宅地が集まり、南北は水田が集落を挟むように広がっている。

『里の散歩道』から

 

『山の散歩道』に記された安永七年(1778)村々書上帳の下山村に、「家42軒 人口235人」とあり、その約四半世紀後に編纂された『新編会津風土記』には、和泉田組下山村家数二十九軒、小名下村(シモムラ)屋数十七軒とあって、現在下下山(シモシモヤマ)となっているのは、風土記で「小名」とされている地域にあたる。『新編会津風土記』には本村に付属する小集落に「小名」と「端村」があり、正確な定義を知らないが、本村に隣り合っている集落は小名で、尾根や谷を挟んだりして離れたところにある場合は端村としているようだ。下山集落は現代も観音堂を中央に上下山と下下山に分かれている。

 

地名から少し離れてしまうが、下山村に関しては、鴇巣村の馬場氏の越後への逃散による山内氏の肝煎り就任、帰郷した馬場氏が鴇巣村には戻れず下山村に住み、下山の馬場氏はその子孫だという伝承がある。近頃古本で探し出した『南郷村郷土誌資料3会津軍記』中に収められた山内家系図から、その年代が江戸時代初期の寛永二十年(1643)をはさんだ時期だとわかった。

 

「山内徳左エ衛門義俊 会津太守加藤式部少輔明成公の御時・郡代守岡主馬・御代官多賀屋太兵衛の御時、鴇巣村の肝煎と成 是時寛永廿年未二月十四日」(下線筆者)

 

この寛永二十年は暴君として有名な加藤明成が、寛永騒動を経て藩政返上を幕府に申し出て改易・取り潰しを命じられた年になる。これが五月のことで、山内徳左エ衛門義俊が「鴇巣村の肝煎と成」が二月十四日というのは出来すぎにも思えるが、それはそれとして、鴇巣の馬場氏が加藤明成の暴政と凶作に疲弊して越後へ逃散したこと、明成の後藩主となった保科正之が藩政立て直しのため、逃散の罪を不問にするので戻れ、との呼びかけたのに応じて戻ったが、鴇巣村にはすでに山内氏が入っていたために戻れず、下山に住んだということになる。

肝煎として鴇巣に入った山内徳左エ衛門義俊は、伊達氏侵攻の際和泉田河原崎城で討死した五十嵐和泉守道正の次男道忠の女が野尻山内家に嫁いで設けた長子で四代目に当たる。当時は和泉田に住していた。この時和泉田で何をしていたのかはわからない。河原崎城城主の血筋に人望が高かったのだろうか。

 

下山の中央にある観音堂には「永正十一甲戌(1514)奥州伊保郷下山村」(注・伊保は伊北)と背面に記された正観音像が伝わっている。その観音像を伝えたと思われる真言宗南照山観音寺の寺伝では、建久五年(1194)、正観音像を本尊として謙景法印によって創建とされている。(『南郷村史 民俗編』)現在の本尊大日如来は真言宗に改宗したことによる。

山城でつながる片貝にある真言宗明王山不動寺が下山観音寺の末寺となっていて、やはり現在の本尊は大日如来だが、山号からいっても不動明王を本尊としていたことが明らかで、両寺の経緯がよく似ているのは、片貝と下山の関係性を少しだけ補強する気がするが、本末寺の関係は山城の本・支関係とは逆になってしまう問題がある。

 

下山城と館については「天正の頃目黒小三郎某と云者住せりと云伝ふれど詳ならず」(『新編会津風土記』)、「天正の頃横田山内其の家臣目黒小三郎、馬場清左エ門両人柵を構えて居住していた。」(『山の散歩道』タテノサー解説)とあり、後者では住人の情報に馬場清左エ門増えていて、これが馬場氏であることが興味深い。山中の館跡に伴う舘の沢(タテノサー)、舘の平(タテノヒラ)、舘の越(タテノオッコシ)という地名があり、さらに昭和62年(1987)南郷村教育委員会発行の『中世伊南と南郷の城館調査報告書(南郷村の文化財9)』では、館跡の東のお城沢(オシロザー)を上り詰めたところに、山頂に至る複数の曲輪や土塁で作られた城郭跡の発見を報告している。

 

 

これらが物語っているように、鎌倉時代の初期(寺伝による)から村として存在した下山村に、逃散から出戻った馬場氏一党が定住できた理由は何だったか。飢饉の後でもあり、水田や焼き畑などの土地を必要とする稼業で居つくことが可能だったとは思えない。

ひとつには館跡に住んでいたという馬場清左エ門と戻ってきた鴇巣馬場氏とが同族関係にあって、何らかの役割を与えることができた可能性は考えられる。『山の散歩道』で下山に伝わっている地名伝承によると、館に住んでいたのは「横田山内氏の家臣」でもあり、鴇巣村肝煎となった山内氏の母が嫁した野尻(現昭和村)の山内氏は同族だ。横田山内氏(領主)と下山館の馬場氏、鴇巣村に入る野尻山内氏と下山に戻る馬場氏、その関係と役割を妄想するなら、小山沢口に残る自然石に彫られた鉱山神・金山彦明神碑と関係づけて考えることに引力を感じる。いつ誰の手で建立されたのか伝わっていないのは、採鉱民のもつ宿命で常にわかりにくい。その盛衰は「○○千軒」などの幻の村の伝承となって残ればよい方だ。

鴇巣山内氏によって伝わっている聖牛権現と御手洗池の伝説は、その池の水が眼病に良いという採鉱民の持ち運ぶ類話でもある。それは鎌倉以来山内氏が持ち続けている属性だと考えている。

 

山内氏に限らず、中世に鍛冶神となった御霊(五郎)神社祭神の鎌倉権五郎に代表されるように、武士は武器の製造もできた。鎌倉の極楽寺川は砂鉄の豊富な川だが、上流に「金山谷」があり、その上流に「権五郎やしき御霊社」がある。源頼朝が挙兵した伊豆も、幕府をおいた鎌倉も、三浦半島にかけても、浜砂鉄の豊富な地域であり、武士は平安時代に貴族の荘園を守るために武装した百姓の延長にいた。食料を生産しながら、必要な農具や武器を鉄資源から生産できる能力を持っていた。全国的にも武士団とはそういうものだったし、武士発生以前には採鉱・冶金の民と分類されるような鉄製利器製造に秀でた百姓たちもいて、鍛冶の技術を発達させただろう。「宮床の田舎不動尊」に登場した、宮床に稲荷を祀った馬場越中守にも採鉱民の要素は濃かった。その時期のどの氏族にもそれはついて回る。「採鉱民」という分類は多分に分業を前提とした現代的な解釈なのかもしれず、交通や貨幣経済が未発達な時代には、生活の中で必要不可欠な要素として開墾や農耕と同レベルに採鉱や鍛冶があり、村ができるということは、小規模ながらすべての技術を持つということだった。焼き畑であれ水田であれ、はじめに必要なのは木を伐り土を穿つ鉄器だっただろう。『古事記』におけるイワサク・ネサクの神である。

 

原本タイトル忘れてます ごめん

 

古墳時代のある時期に、海や川の砂州で取れる砂鉄から鉄塊ができるとわかった頃には、ゴールドラッシュならぬ、スチールラッシュがあったに違いない。半島から運んでくる鉄鋌が自前で生産できるとなれば、稲作伝来以来の産業革命だろう。その頃に浜辺や河口にどのような砂鉄溜まりがあったものか。地球ができてから誰も取り上げなかった砂鉄が蓄積していたという景色を思うと興奮する。砂鉄溜まりの砂を藤蔓などで密に編んだ箕の中で揺すると砂は流れ落ち、比重の重い砂鉄は目に残る。そうして溜めた砂鉄を乾かし、小型の炉で炭と焼いて溶融し少量の鉄塊を得る。その鉄塊を熱して戻しながら叩き延ばして鎌や鍬先や刀子にしていく。その延長上に新田開拓があり、古墳造営や武装集団があり、戦が現れる。

ビスマルクも伊藤博文も「鉄は国家なり」のもとに現代社会を築こうとした。

 

近世初期ともなれば分業が進んで鎌倉時代のようなことはないとしても、武士団の棟梁家に採鉱から鍛冶までを統括するノウハウが残っていてもおかしくない。山内徳左エ衛門義俊の曽祖父となる五十嵐和泉守道正の五十嵐氏もまた、越後五十嵐川流域(三条市)で力を持った採鉱・鍛冶民でもある。このあたりに関してはまだ旅の途上ではあるものの、三条市の金属産業の出発点になっているのだろうと感じている。鴇巣から越後へ逃散した馬場氏は、なぜ当時は米処でもなくむしろ耕作民としては厳しい越後を目指したのだろうか、そして帰ってきては南郷村で唯一金山彦の石碑を祀った下山に暮らし始めたのか。石碑の年代もわかっていない中では独り言にしかならないが、鉄がそれを解く鍵なら面白い件だ。

 

『南郷村郷土誌資料5』から

 

平安時代末に発生した武士団の性格をこのように考えてみたとき、ブログ初期に謎としていた「スガマ」(前記事「スガマ」参照)の地名は、踏鞴と鍛冶のために組織的に大量に焼いた炭窯の地名という線が残ってくる気がする。下山にもあるスガマ地名の特徴として以前挙げた、比較的なだらかで日当たりの良い山の上部というのは、伐採から炭焼き窯までの木材の移動の便宜(あるいは牛馬の便宜)を考えてのことかもしれない。

もし村として鉄器や鉄材を必要とするような時があったら、その鍛冶に使う炭は自前で生産して鍛冶屋に渡しただろう。戦に使う鉄器生産の炭を年貢のような形で分担させられるなどの事例があるだろう。しかし具体的な文献資料は挙げられないのでこれも推定の域を出ない。

 

『新編会津風土記』に取り上げられている清水沼は地名が変わった経緯のわかる珍しい例なのでここに挙げてみる。「村の丑寅の方十四町山奥にあり(中略)旱歳に雨を祈る所と云」とのことだが、すでに忘れ去られている。丑寅(北東)の方にある山中でそれに当たると思われるところには標高600~700mにかけての菖蒲谷地(ショウブヤチ)、大谷地(オオヤチ)、小谷地(コヤチ)、杉の谷地(スギノヤチ)、孫田(マゴタ)、越田(コエダ)など、湿地名かそれを開いた田の地名(大谷地は田)に変わっている。「旱歳に雨を祈る」という祭祀の場は他の場所へ変わったのだろうか、祭祀自体も消えたのだろうか。

 

(へつり)はこのブログに何度も出てくる地形で、北原と宮床境の岪は愛宕山として祀られ、界の岪は牛首峠として宮床への街道だった。下山の牛首(ウシクビ)も隣の只見町梁取とをつなぐ岪を越える牛首峠だろう。等高線からもそれが伺える。下山観音寺の後ろから山に登り、堂山(ドウヤマ)、堂平(ドウダイラ・ドウヘイ)を通過して牛首を越えたのだろう。宮床の安照寺も立地が似ていて通行者を休ませたり、監視したりする役割があったのではないだろうか。

(前記事「運ばれた牛首」参照)

 

 

下山のは京路岪(キョウジベツリ)という地名がついていることは冒頭でも触れたが、これは高倉宮以仁王伝説による付会地名だ。そこで以仁王を外して改めて考えると、キョウはカヒ(峡)で、カヒジ(峡路)が京師(ケイシ=都)と混同した結果、付会が可能になったと考えた。京路という単語をあまり見たことがないのは自分の不勉強としても「登りつめ和泉境を眺むればここぞ都の京路なるらん」の御詠歌が由来というのはいただけない。「都の京路」は「歯痛が痛い」に近い。

 

ついでに付会と考える地名由来を二つ、『里の散歩道』に、ほとんど岪直下の槍の穂先に熊田(クマダ)があり、古老曰く「山近くに熊が出没したところより、誰云うとなく熊田となった。」と解説されるが、これはクマダの音から「熊」にしてしまったことで付会されたもので、この命名ケースがないとは言わないが、現代的すぎるだろう。どの集落にも熊ブチ(熊猟師・鉄砲ブチとも)の一人二人はいたこの地域で、熊の出た田に地名を付けてもあまり意味はない。クマダの意はおそらく隈田で、「隈なく」のクマ、文字通り「村の隅の田」のことか、小山沢の曲がる所の曲(クマ)千曲川のクマの意かのどちらかだろう。

 

もう一つは靏ケ渕(ツルガフチ)で解説には「その昔鶴が生息していたのではなかろうか」と無責任なことを言っている。しかしこの解説者が引用した古文献には正解が記載されていた。

 

①    「宝永三年(1706)靏ヶ渕古新田地欠流往還下伊南川に相成家居危うく(以下略)」

②    「天保十五年(1844)四月九日靏ヶ渕大破也、其後追年欠入候依テ嘉永元年(1848)戌申年地名字名を靏ケ岡と相改申候」

 

水害のたびにがけ下が抉り取られている様子が伺える。

そして『山の散歩道』の下山には同じ用語として「ツリゾネ」があり、「中の沢が急峻なため曽根伝えに出入りしていた」とある。これは急斜面で中腹に道がなく、尾根を伝って行き来したということになる。これらから「靏」は「ツリ」であり急峻な地形、「ツエ」、「潰える」と同義で崩壊地名を表している。舘岩村「高杖原」の「ツエ」なども同じ。あてた靏の字も音と雨冠が共鳴しているような命名だと思う。鶴の生態を知る由もないとはいえ、無理がありすぎる付会だと思う。

 

下山村が上村と下村に分かれていたことから、神社もそれぞれが祀っていた。上村の神社は熊野神社で小山沢の入口右岸にあった。下村では鹿島大明神を祀った。

「鹿島神社が今の鬼渡神社の処に下坪の産土神として祀られていた。今も境内に鹿島の要石とゆう(ママ)円柱の石がある」(『南郷村郷土誌資料5』)(下坪は下村と同義)

 

明治維新の神社仏閣統制令(1868)により鹿島神社は鬼渡神社となり、熊野神社は大正十年(1921)合社して鬼渡神社として現在地へ移した。「鹿島神社の記録は見つからない」(同前掲書)(下線筆者)。読みようによっては鹿島神社が明治に鬼渡神社に改名したようにも読めるが、半世紀以上前の『新編会津風土記』にはすでに鬼渡神社は記載されている。観音寺が司とされ、そこに鹿島神社の記述はない。

『新編会津風土記』が記したことに訂正も加えずに下線部を記す『南郷村郷土誌資料5』のいうことがわかりかねる。この地域での神社の司は他の村でも上村の熊野神社でも、多くを「界村の渡部信濃」が任じているが、どうやら鹿島、鬼渡両社は、鬼渡神社で観音寺が両社を同一視して祀っていたように受け取れる。神仏習合時代の別当寺ということなのだろう。あくまでも想像でしかないが、要石まである鹿島大明神の「記録が見つからない」とか、『風土記』に記載がないとかいうのは、下村の鎮守が実質的に鬼渡神社になっていて、鹿島大明神独自の祭祀をしてこなかった可能性があるのと、神事を寺院が司ることに暴力的なまでの改変を要求した(と受け取られた)神仏統制令を恐れて、別当寺が証拠となるものを消し去った可能性などが考えられる。地域差があるものの、この例は日本中に数多く見られた。

 

『南郷村史 民俗編』には「この神社はもと鹿島神社であったのを明治維新の時鬼渡神社と改号したとあるが、鬼渡神社が明治以前からあったかどうかははっきりしない」との記載があり、前段は「鹿島が鬼渡へ改名説」を寺伝の引用のように取り上げ、こんどはそれ以前の鬼渡神社の存在を疑問としている。ここでは『村史』が『新編会津風土記』の鬼渡神社の記載があること、鹿島神社の記載はないことをどう捉えているのかが、むしろはっきりしない。なにか避けられているものがあるような気まずさがある。

 

鬼渡神社が観音寺の管轄で、鹿島神社とともに下村の鎮守となっているのは、近世の下村が下山村の「小名」であることからは、ややチグハグな感じがする。観音寺の歴史は寺伝で言えば鎌倉時代の初期まで遡れ、観音堂の正観音坐像が元観音寺の本尊だとすれば「永正十一甲戌(1514)」までは遡ることができる。立地も隣村への街道沿いにあって、通路と思われる堂平や堂山にも観音寺の関係が見え、寺社の配地もごく自然に一村を作っている。むしろ小名という位置づけに違和感ばかりが大きくなる。現在でも上村(本村)の鎮守である熊野神社が大正時代にもと小名である鬼渡神社に合祀されていることも気になる。片貝で村の中心が山城関係地名の方へ移動していたように、小山沢(下山沢)上流の下山城が上村の発達に関係することは考えられるだろう。現地での確認ができていないが、金山彦石碑の場所は上村鎮守の熊野社跡に近く小山沢口にあるとされていることは、どちらが先に上村の鎮守だったか?という疑問も出してくる。下山における馬場氏の分布や家伝などの新情報があると突破点が見つけられるかもしれないのだが、今はわからない。

 

村全体の地勢が宮床に似ていることもあってか下宮床の地名を思い出した。岪の麓の安照寺の近くに墓石群を残している宮床村の発生した所だが、下山の下村の地形は岪も含めてよく似ている。岪の根元は水流に侵食されにくく、一応水害からは安全な場所で下宮床もそのような場所にあった。伊南川の流路変更や治水整備が進むにつれて、条件の良くなった場所へ村が移動していき、かつての村を下宮床と呼ぶようになっていた。下山の場合、上村の位置は時代が遡るほど水害の危険にさらされる無防備な位置に思える。時代が下って堆積地が高くなり治水が進んでからでないと、安全とは言えない場所のようだ。宮床で初期の本村がなくなって村全体が現在地へ移っていったのと似たような集落の移動が、下山では現在起こっている最中なのではないかという気がした。(下山おわり)

 

後光がさしてるわけじゃあありません(もう少しです)

 

***追記(愚痴)***会津に多い鬼渡神社は謎の神社で、二渡、見渡、三輪渡、二羽渡などの神社もあるそうです。「渡」というところだけが共通しているのは渡船などの守護なのでしょうか。伊南村の鬼渡神社も川の合流地点で増水には弱い集落だった記憶があります。そもそも祭神の阿須波神、波比岐神が『古事記』の大年神の縁神であることくらいで、何を司る神様なのかもよくわからない。これは手に余るテーマになりそうです。

 

***追記の付録***

以前鬼渡神社のアスハ・ハビキという祭神名が意味不明で音も不思議だったので、似たような音や不明の地名を拾ったことがあったので少し紹介してみます。

下田市吉佐美(キサミ)、九頭竜川に注ぐ足羽(アスワ)川、身延町波木井(ハキイ)、熊野市波田須(ハダス)、西伊豆町宇久須(ウグス)、南伊豆町下流(シタル)、佐倉市麻賀多(マカタ)神社、群馬県波志江(ハシエ)町、南会津町シナシ、以下は対馬、佐須奈(サスナ)、志多留(シタル)、志多賀(シタカ)、阿連(アレ)、豆酘(ツツ)、加志々(カシシ?)、久須保(クスボ)、佐須瀬(サスセ)

ますますさっぱりわからなくなるのでした。伊豆と対馬は似てますね。厳原(イヅハラ)もあるし。ウグスも共通だったような?朝廷の卜占の神官は対馬と壱岐と伊豆から出すことになっていて、伊豆の神官は対馬から来た人たちだったらしいですから、古代から行き来が当たり前だったんですね。おまけでした。