
作為と可愛さ
作為と可愛さ
あざといは、小利口なこと、です。
ですから、あざと可愛いは、小利口であって、小利口ということは可愛く無い、のです。
まさに、峰不二子なんかがあざと可愛いですが、可愛くはない、のです。
可愛いはこれ。
で、これがあざといとか、作為的なら、可愛くない、のです。
こうして見ると、日本の女性って作為的で「可愛くない」と思いませんか。
何と言うか、メイクで作る外見のこと、なのです。
これに戻ると、そんなものは無い、のです。
そんなものは無くて可愛いのです。
逆に、この子がメイクに凝ったら可愛くなくなる、のです。
でも、メイクをしてても、こうなら可愛い訳で、つまりは作為やメイクをとったものが可愛いのです。
そして、日本の女性はそこから最も遠いのです。
例えるなら、典型的な京都の女性みたいな感じ、なのです。
美人とか、あざとさは感じますが、可愛くはない、のです。
作為の果てに、こんなのもありますが、可愛くはない、のです。
一方、これは年をとってますが(失礼)、
世界一強い女性ですが、可愛い、のです。
でも、これを作為的にやってしまうと、可愛くない、のです。
天衣無縫とは、そういうこと、なのです。