手前見切り 奥見切り | プラクティス

手前見切り 奥見切り

手前見切り 奥見切り


「見切りをつける」と言う言葉を知っていますか?



いえ、あなたは知りません。


そして、皆、こう言われるのがイヤなのです。


何故かって、知らなくても、知っている、のですから。


知っているから、知っているのですが、


たとえば、英語なら知ってますか。


数学なら知っていますか。


「えいご」とか「すうがく」とか、タイトルの数文字を知ってるかなんて聞いてない、のです。


そんなの日本人だったら誰でも知っているのですから、わざわざ聞かない、のです。



たとえば、「三度目の正直」という言葉があったとして、それを知っていますか? は、一度や二度で放り投げていませんか(大人なのに)なのです。


で、見切りをつけるも、


現代人は、やってもないし、やっても超短時間なのです。


たとえば、楽器を触って数時間で見切りをつけられても、ものすごく違う、と思いませんか。



でも、現代人はんなコレなのです。


なんか、上手く行く方法を探してみる、とか、試してみる、とか、なのです。


あのさ、それで、そろばんが上手くなりますか。


自分の演算能力が上がると思いますか。


歌なら解りますか?


仕事の接客でも、営業でも、異性と話すでもそうで、そんなもんじゃない、のです。


で、自分には向いてないとして、速攻で見切りをつける、のです。


さらに、そんな自分は正しいと思ってる、のです。



どうします、この自分は正しいと思ってる大人達。



で、「見切りをつける」と言う言葉を知ってる? なのですが、


知ってると答えられてしまう、のです。


「小学生くらいの生意気さ」のまま、なのです。



バスケットのドリブルを合計3時間くらいで見切りをつけられても…なのです。


でも当人は自分馬鹿だと認めないのです。


そうではなく、周りが悪い、のです。


で、他に自分に向いたものがあると妄想しているのですが、その人が、サッカーやっても、野球やっても、バレーボールやっても、同じじゃありませんか?


つまり、運動の問題ではなく、脳の問題なのです。


が、当人は、自分に向いてる種目の問題にすり替わっている、のです。


婚活で、当人に問題がある人が、異性の問題にすり替えてるのと同じ、なのです。


で、すぐ見切りをつけて、次、次、次なのです。


ゲームを次から次にやる人、動画を次から次に見る人、どれも同じ、なのです。



当人に問題がある人が、対象の問題にすり替えてる、のです。



自転車に乗るのに3回挑戦して駄目だったら、向いてない、才能がない、面白くない、として見切ってるのと同じ、なのです。


一体、何が解ったのか、何を知ったのか、何で知ったような口を叩けるのか、なのです。








ある日の事でございます。御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いているはすの花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色きんいろずいからは、何とも云えないにおいが、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄じごくの底に当って居りますから、水晶すいしようのような水を透き徹して、三途さんずの河や針の山の景色が、丁度のぞ眼鏡めがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、陀多かんだたと云う男が一人、ほかの罪人と一しょにうごめいている姿が、御眼に止まりました。この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたをって行くのが見えました。そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠ひすいのような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮しらはすの間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。


 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた陀多かんだたでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦せめくに疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気なにげなく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛くもの糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。陀多はこれを見ると、思わず手をって喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたから陀多かんだたは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせって見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。  すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限かずかぎりもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるでありの行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦ばかのように大きな口をいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえれそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数にんずの重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中でれたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎かんじんな自分までも、元の地獄へ逆落さかおとしに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとい上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこで陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立ててれました。ですから陀多もたまりません。あっと云うもなく風を切って、独楽こまのようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。


 御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終しじゅうをじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。  しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足おみあしのまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のずいからは、何とも云えないい匂が、絶間たえまなくあたりへあふれて居ります。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。



衆生の見切りと、御釈迦様の奥の奥まで読んだ見切りとは、同じ言葉ですが、全然違う、のです。


イチローだって野球は解らないと言い、藤井聡太だって将棋は解らないと言い、解ったと言うのはいつの世も凡夫なのです。