やりたくないことをやりたいと思っている
その昔。
うなぎが売れなくて困っていた、うなぎ屋さんが、ある人に、どうしたら売れるかと相談しました。
すると、その人は、注文が無い時から、うなぎを焼いて、その煙が外へ出るようにしなさい、と言いました。
すると、うなぎの美味しそうな匂いにつられて、次々とお客さんが来店するようになりました。
めでたし、めでたし。

言うまでもなく、この技は、現代でも通用します。
今で言う「試食販売」がこれにあたり、「試食販売」されたものは、売り上げがあがります。
しかし、多くの人は、これをしません。
何故か。
それは、注文があって渡す、という条件反射が当たり前だと思っていて、そうじゃない行動が出来ないのです。
出来ないどころか、考えたことも、ない。
よく、本を書きたいとか、好きなことで食べたいとか、あれしたい、これしたいと口では言う人がたくさんいます。
なら、やったら良いじゃないですか。
でも、しない。
何故か。
それは、注文があって渡す、という条件反射が当たり前だと思っていて、注文が無い時から、書いたり、作ったり、やったりすることが出来ないのです。
出来ないどころか、考えたことも、ない。
しかし、よく考えてみてください。
小説家のデビューをしてしまうような人は、注文がない時から書いているのです。
それと、お金をもらったら、それと引き換えにやる、というのは雲泥の差があるのです。

実際、注文が無い時から、やってることでなければ、やりたいことでも、好きなことでも、したいことでも、何でもありません。
本当にやりたいことは、注文が無くても、やるのです。
たとえば、お金をくれるなら踊ってあげてもいい、お金をもらえるなら踊って暮らしたい、みたいな人がいた場合、踊りをけなしているのです。
何と言うか、お金をくれるならデートしてもいい、お金をもらえるなら手を組んであげる、みたいな人がいた場合、何をどう考えても、相手のことを好きじゃないでしょう。
本当に、踊りがやりたくて、好きな人は、金がどうこうではなく、踊りたいから踊るし、やりたいからやるのです。
その結果、好きなことをして暮らしていけるかもしれませんが、こういう人はたとえお金がもらえなくても、踊っていれば幸せなのです。
または、こういう仕事をしようとか、こういうキッチンやらガレージをつくろうとか、本当にやりたい人は、今の仕事をしながら、夜や土日にそれをしてみたり、それを作ってみたりするのです。
そうでなくて、お金がもらえるならこうする、というのは、乞食の発想です。
なぜ、周りが、そいつの自己満足のためにお金を出さなければならないのでしょうか。
仮に、魚の勉強をしたい人がいて、国がお金を出してくれるなら魚の勉強が出来るのにと思っている人が居たとしましょう。
そんなの、「夜や土日にやれよ!」で終わりです。
夜や土日にやっていないのだから、本当の意味でやりたいことではないのです。
本当にやりたい人は、仕事をしながら夜や土日に勉強して、そうやって自腹を切っているうちに、国がお金を出してくれる教授みたいになれたりするのです。
それと、今やっている仕事がつまらないから、好きなことをお金をもらってやりたい、土日は遊びたい、みたいなのは、ふてえ野郎なのです。
そんな奴に人様が金を出す訳がないだろう、という当たり前のことが永遠とわからないのです。

注文がない時から、文章を書く人が小説家などになるのであって、小説家になりたい人が小説家になるのではありません。
ここの点を日本人は、めちゃくちゃ勘違いしています。
小説家が好きだから、小説家になれる訳では無い。
これは、ゲームが好きだから、ゲームが作れるのとは違うようなものです。
ほとんどの人は、「消費者」の目線のままで、やりたいことは「消費者」なのです。
ケーキが好き(消費)なのと、ケーキ作りが好き(生産)なのって、全然違うでしょう。
で、ケーキ作りに向いているのは、ケーキ作りが好きな人であって、ケーキを食べるのが好きだからケーキ屋さんでケーキを作ってみたい人ではないのです。
前者は、お金をもらえなくても、作る。
後者は、お金をもらえなければ、作らない。
一見、似ているようで、これだけ違うのです。
つまりは、後者は、(お金をもらえなければ)「やりたくない」ってことで、やりたい、やりたくないで分けるなら、(当人がやりたいと勘違いしていても)「やりたくない」のです。

で、
「やりたくない」ことを、自分にやらせて、それで幸せになれると思いますか。
ニセの幸せにならなれます。お金のあるうちは。
では、お金の洗脳を解いたらどうでしょう。
お金をなくして、ケーキ部みたいに、いくらやっても金銭的な報酬がもらえないとしたら…。
そう、そしたら、お金目当てな人は、いつの間にか来なくなるのです。
理由は、自分のやりたいことじゃないから、です。
でも、金銭的な報酬があるとなると、「ケーキ作りしてみたいんです」とか言うのです。
(自分のやりたいことじゃないのに)自分のやりたいことだと言うのです。
洗脳とは、これくらい人を別人にしてしまうパワーがあります。
合コンで猫を被る女性なんかより、よっぽど重症な面接猫かぶり男女が社会にはゴロゴロいます。
そんなことをするから、満たされず、ストレスがたまり、死んだ魚の目のようになっていくのです。
そして、洗脳されている人は、自分が洗脳下に居るとは気がつかず、その時は、「自分は本当にケーキ作りがしてみたかった」と、家で全然やってないのに、それが本心だと思うのです。


うなぎが売れなくて困っていた、うなぎ屋さんが、ある人に、どうしたら売れるかと相談しました。
すると、その人は、注文が無い時から、うなぎを焼いて、その煙が外へ出るようにしなさい、と言いました。
すると、うなぎの美味しそうな匂いにつられて、次々とお客さんが来店するようになりました。
めでたし、めでたし。

言うまでもなく、この技は、現代でも通用します。
今で言う「試食販売」がこれにあたり、「試食販売」されたものは、売り上げがあがります。
しかし、多くの人は、これをしません。
何故か。
それは、注文があって渡す、という条件反射が当たり前だと思っていて、そうじゃない行動が出来ないのです。
出来ないどころか、考えたことも、ない。
よく、本を書きたいとか、好きなことで食べたいとか、あれしたい、これしたいと口では言う人がたくさんいます。
なら、やったら良いじゃないですか。
でも、しない。
何故か。
それは、注文があって渡す、という条件反射が当たり前だと思っていて、注文が無い時から、書いたり、作ったり、やったりすることが出来ないのです。
出来ないどころか、考えたことも、ない。
しかし、よく考えてみてください。
小説家のデビューをしてしまうような人は、注文がない時から書いているのです。
それと、お金をもらったら、それと引き換えにやる、というのは雲泥の差があるのです。

実際、注文が無い時から、やってることでなければ、やりたいことでも、好きなことでも、したいことでも、何でもありません。
本当にやりたいことは、注文が無くても、やるのです。
たとえば、お金をくれるなら踊ってあげてもいい、お金をもらえるなら踊って暮らしたい、みたいな人がいた場合、踊りをけなしているのです。
何と言うか、お金をくれるならデートしてもいい、お金をもらえるなら手を組んであげる、みたいな人がいた場合、何をどう考えても、相手のことを好きじゃないでしょう。
本当に、踊りがやりたくて、好きな人は、金がどうこうではなく、踊りたいから踊るし、やりたいからやるのです。
その結果、好きなことをして暮らしていけるかもしれませんが、こういう人はたとえお金がもらえなくても、踊っていれば幸せなのです。
または、こういう仕事をしようとか、こういうキッチンやらガレージをつくろうとか、本当にやりたい人は、今の仕事をしながら、夜や土日にそれをしてみたり、それを作ってみたりするのです。
そうでなくて、お金がもらえるならこうする、というのは、乞食の発想です。
なぜ、周りが、そいつの自己満足のためにお金を出さなければならないのでしょうか。
仮に、魚の勉強をしたい人がいて、国がお金を出してくれるなら魚の勉強が出来るのにと思っている人が居たとしましょう。
そんなの、「夜や土日にやれよ!」で終わりです。
夜や土日にやっていないのだから、本当の意味でやりたいことではないのです。
本当にやりたい人は、仕事をしながら夜や土日に勉強して、そうやって自腹を切っているうちに、国がお金を出してくれる教授みたいになれたりするのです。
それと、今やっている仕事がつまらないから、好きなことをお金をもらってやりたい、土日は遊びたい、みたいなのは、ふてえ野郎なのです。
そんな奴に人様が金を出す訳がないだろう、という当たり前のことが永遠とわからないのです。

注文がない時から、文章を書く人が小説家などになるのであって、小説家になりたい人が小説家になるのではありません。
ここの点を日本人は、めちゃくちゃ勘違いしています。
小説家が好きだから、小説家になれる訳では無い。
これは、ゲームが好きだから、ゲームが作れるのとは違うようなものです。
ほとんどの人は、「消費者」の目線のままで、やりたいことは「消費者」なのです。
ケーキが好き(消費)なのと、ケーキ作りが好き(生産)なのって、全然違うでしょう。
で、ケーキ作りに向いているのは、ケーキ作りが好きな人であって、ケーキを食べるのが好きだからケーキ屋さんでケーキを作ってみたい人ではないのです。
前者は、お金をもらえなくても、作る。
後者は、お金をもらえなければ、作らない。
一見、似ているようで、これだけ違うのです。
つまりは、後者は、(お金をもらえなければ)「やりたくない」ってことで、やりたい、やりたくないで分けるなら、(当人がやりたいと勘違いしていても)「やりたくない」のです。

で、
「やりたくない」ことを、自分にやらせて、それで幸せになれると思いますか。
ニセの幸せにならなれます。お金のあるうちは。
では、お金の洗脳を解いたらどうでしょう。
お金をなくして、ケーキ部みたいに、いくらやっても金銭的な報酬がもらえないとしたら…。
そう、そしたら、お金目当てな人は、いつの間にか来なくなるのです。
理由は、自分のやりたいことじゃないから、です。
でも、金銭的な報酬があるとなると、「ケーキ作りしてみたいんです」とか言うのです。
(自分のやりたいことじゃないのに)自分のやりたいことだと言うのです。
洗脳とは、これくらい人を別人にしてしまうパワーがあります。
合コンで猫を被る女性なんかより、よっぽど重症な面接猫かぶり男女が社会にはゴロゴロいます。
そんなことをするから、満たされず、ストレスがたまり、死んだ魚の目のようになっていくのです。
そして、洗脳されている人は、自分が洗脳下に居るとは気がつかず、その時は、「自分は本当にケーキ作りがしてみたかった」と、家で全然やってないのに、それが本心だと思うのです。

