じっくり考える「機会」を | プラクティス

じっくり考える「機会」を



その昔。

修学旅行などで、普段とは違う場所で寝ることで、普段では出来ない会話を友達と出来た経験がある人は、結構いるのではないか、と思います。

それで自分の意外な面を知ったり、友達と仲良くなったり。

それは、『他の事が出来ない』ので、話に集中できるから、です。

現代でも、作家の缶詰など、「じっくり考える」ことが必要な場面では、こういう「宿」が使われたりします。


しかし、それ以外では、こういう「間」の利用が、あまりにも少なくなった気がします。


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現代人には、じっくり考える時間はあるけど、じっくり考える「機会」がない。

最近、多くの人を見ていると、本当にこう思います。

それはひとえに、スマホやパソコン、テレビなどのせいでしょう。

若い子の会話じゃないですが、「沈黙」の「間」がもたないのです。

「間」があると、自然に、テレビをつけたり、スマホをいじったり、何か面白い事がないかネットをサーフィンしてしまう。

こうやって、じっくり考える時間があっても、それを自ら潰して、じっくり考える「機会」がなくなっていく。

その毎日の繰り返しになってしまうのです。


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今でも、閑静な宿では、将棋の対局が行われたりします。

それは、閑静な宿の方が、じっくり考えるのに向いているから、です。

この時に、対局中の棋士が、自分の番まで時間があるからと、テレビをつけたり、スマホをいじったり、何か面白い事がないかネットをサーフィンしたり、好きな本を読み始めたら、どうなるでしょう。

実際には、そんな馬鹿な棋士は居ませんが、もし居たら、勝敗は最後まで指す必要もなく明らかでしょう。

理由をわざわざ説明する必要はないと思いますが、一応、しておくと、「集中できてない」からです。

このように、「集中せず散漫」を繰り返すと、「集中できない脳が出来上がる」のです。


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たとえば、スマホ依存症の人は、いつでもスマホが気になって、話に集中できなくなってしまいます。

授業中でもスマホ、バイト中でもスマホ、お風呂でもスマホ、寝る時にもスマホ。

こういう風になったら、いざ集中しなくてはいけない場面でも、スマホが気になって集中できなくなってしまうのです。

これは、自分の脳を自分で「集中できない脳」に訓練した、ということです。

実際、現代人では、長い文章を読めない、読む集中力が続かない大人が、増えているのです。

LINEや、ツィッター、ショートメッセージぐらいしか文章を書かない生活をしたお陰で、長い文章が書けなくなってきているのです。


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資本主義や、商業主義の末期的なところまできている現代の日本では、どこもかしこもレジャーランド化して、しかも、飽きられて捨てられています。

塾のレジャーランド化。大学のレジャーランド化。グルメのレジャーランド化。観光地のレジャーランド化。ショッピングのレジャーランド化。

これらが流行るのは、客が求めるからで、客が求めるから提供する側が出てくるのですが、客はすぐ飽きるのです。

だから、飽きられないように、次から次へと、新しいものを出していきます。

そして終いには、SNS疲れ、買い物疲れ、食べ過ぎの胃もたれ、飽きた、どれもこれも一緒で欲しい物がない、とか言い出すのです。


これは、2つの点で、大問題で、1つは店が客を「集中できない脳」にしたてあげたこと。

もう1つは、客が「集中できない脳」になったので、何をどうしたって、すぐ飽きられてしまうということです。


たとえば、塾や予備校のレジャーランド化に慣れた学生が、大学に合格したら、その大学の授業についていけると思いますか。

馬鹿みたいに、SNSを頑張ったり、グルメ写真をせっせとアップしたり、観光地に行って写真を撮りまくったり、買い物をしまくったりする人は、仕事や仕事の勉強がおろそかになる、と思いませんか。

お店は、お客を喜ばせた結果、その客の集中力や所得が下がり、それによってお店の売り上げも下がり、お互いが共倒れ、していくのです。


何というか、勉強をろくにしない学生が、連日、お酒を飲んで盛り上がって、それによって馬鹿になって、自滅していくような感じです。

スマホは、中毒になっても、アルコール中毒のように倒れて救急車で運ばれないので、自覚症状がないという点で、お酒よりも厄介とも言えます。


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現代人には、じっくり考える時間はあるけど、じっくり考える「機会」がない。

そうしている間に、いつの間にか、じっくり考える「脳力」も失われているのです。

大学のレジャーランド化で、わかりやすいのが、大学生の入学時と卒業時の学力です。

レジャーランド化した大学では、卒業時には入学時よりも学力が低下して、卒業しているのです。

これでは一体、大学の授業料の何百万円は、何だったのでしょう。


また、集中力が続かないので、友達とじっくり語り合ったり、何かを長時間、考えたりすることも出来ないまま、卒業を迎えてしまった学生は、悲しいほどにいっぱい居ます。

何かを考えようにも、自分自身がスマホやネットに逸れてしまって、たとえそれがなくても、じっくり考える「機会」がなく、そうしている間に、じっくり考える「脳力」も失われていく。


話を分かりやすく、極端にして、ヤンキー同士の会話では、「まじすげぇ!」「最高!」「愛羅武勇」とかで盛り上がれても、何かをじっくり語り合うことは、「語彙」と「集中力」が足りないので、不可能なのです。


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考えようにも考えられない。考えてもまとまらない。

でも、自分は何とか、その無限ループから抜け出したい。


こう思う人は稀ですが、居ない訳ではありません。

そして、こう思う人には良いお知らせがあります。

「自覚があるなら、ものすごくマシ」で、「頭が悪い訳じゃ無い」と言うことです。

だいたいが、じっくり考える「機会」がなかっただけ、だからです。

多くの人は、我流で考えて堂々巡りするのが当たり前だと思っていて、そこに疑いがないので、端から見ると自信があるように見えるだけ、です。


と、言うことは、ここで大ヒントが出ました。

方法は簡単で、「我流で考える」のを止めれば良いのです。

これは男性より女性に多いのですが、話があるとすぐ自分に結びつけて考えるクセがある人がいます。

これをすると、わたしに関係あるかないか、で判断するので、いつの間にか、じっくり考える「脳力」も失われていきます。

たとえば、ある職場で、事務の仕事をしている女性がいたとします。その人は自分は事務なので、事務に関係あることだけを聞いていました。さて、この女性がある日、営業に配置転換されたら、どうなるでしょう。

配置転換ならまだしも、会社が倒産して、営業職しか就職先がなかったとしたら…。

一方、同じ職場で、事務の仕事をしている女性がいたとします。その人は自分は事務だけど、同じ職場のことなので営業についての話も聞いていました。さて、この女性がある日、営業に配置転換されたら、どうなるでしょう。

と、つまり、こういうことです。

男性でも、女性でも、話があるとすぐ自分に結びつけて考えるクセがある人は、(全体としての)仕事が出来ないのです。

下手をすると、真面目にやっているのに無能扱いされてしまいます。

無能扱いされる方は、真面目にやっているのですからたまったものじゃないと思うかもしれませんが、問題はそこではなく、話があるとすぐ自分に結びつけて考えて、それ意外はスルーする態度、言い換えると、「周りのことを考えない我の強さ」が非常にマズいのです。

これは、職場でなく、旦那でも、妻でも、同僚でも、友達でも、まず嫌われます。

いわゆるデリカシーがないというのが、これです。

我流で考えて堂々巡りするのが当たり前だと思っている人には、こういうことが見えていないのです。


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「我流で考える」を止める。

これは、年をとればとるほど、年齢の倍くらいの確率で、困難になります。

それは、ヤンキーが「まじすげぇ!」と言いたくなるのをこらえて、別の言い方にするようなものです。


ただ、これが出来ると、一気に能力が花開いたりします。

何故なら、脳の中にある神経回路網のコントロールを自分で出来た、ということだからです。


そもそも我流とは、その人が過去に記憶したことをベースに、今の行動を行うこと、です。

ヤンキーで言えば、学生時代に通用したことを実社会でやるから問題になる訳です。

たとえば、高校3年生と、卒業した今では、そのタイムラグに1年あります。

1年もあるのに、1年前と状況がまったく違うのに、脳の中の行動規範が更新されていないので、おかしなことになってしまうのです。

ただ、誰も、このヤンキーを他人事のように笑えません。

何故なら、日本全体が、旧態依然の商売をして、それが全然うまくいっていないのに、ずっと続けているのは、明らかだからです。

なぜ旧態依然の商売をしてしまうかと言えば、状況が変わったのに、その人が過去に記憶したことをベースに、今の行動を行っているから、です。

それが、我流で考えるということです。

これを何とかするには、何と言っても、まず「我流で考える」を止めること、なのです。

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