コミュニケーション
コミュニケーション。
コミュニケーションとは、何でしょうか。
それは、以下の画像の先にあります。


・解説
一体、自分は4つのどれに当てはまったでしょうか。
自分なら、どれを選びますか。
(選べない、選ばない場合は、右下の選択となります)
言うまでも無く、コミュニケーションとは、外野で文句だけを言うこと、ではありません。
政治や経済などへの文句、巨人が勝った負けたとか、アイドルが誰と付き合っているとか、直接的に自分と関係ないものに対しての不平不満、感情をぶちまけることでもありません。
また、他人からの受け売りを「自分はこう思う」と自分の意見として言うことでもありません。
ましてや、自分の意見が正しいから、相手は罰せられるべき、でもありません。
でも、世の中を見渡すと、残念ながら、こういうのだらけです。
それは、学が無いからと言う訳でもなく、一流大学を出て、一流企業に勤めている人でさえ、こうです。
一歩、夜の居酒屋に足を踏み入れたり、昼の井戸端会議を覗いてみれば、これが本当かどうか嫌でもわかるでしょう。
そして、こういうことをいかに解ってもらうか、受け入れさすか、そんな風にコミュニケーションが、相手を納得させる、説得させる技術みたいな誤った見方が、世間を覆っているのです。
繰り返しますが、一流大学を出て、一流企業に勤めている人でも、こうです。
ですから、一概に学歴とイコールではないのです。
身も蓋もない言い方をすれば、偏差値が高くても、心がない人、偏屈な人、専門バカ、何を言っているんだか全然わからない人は、いくらでも居ると言うことです。

では、コミュニケーションとは何でしょうか。
それは、以下の画像の先にあります。

コミュニケーションとは、まず「理解」です。
そして、その後に、相互理解があります。
何故、まず「理解」かと言えば、
自分でも解らないことを言うと、相手はもっと解らない、からです。
ですから、自分自身が理解をしていないと、コミュニケーションは始まらないのです。
あるいは、周りにものすごい労力を強いることになります。
たとえば、赤ちゃんは、自分自身を理解していないので、泣くしか出来ません。
歌で言えば、迷子の迷子の子猫ちゃん、状態です。
しかし、それが許されるのは、まだ赤ちゃんだからです。
もし仮に、赤ちゃんじゃなくて、酔っ払いのような大人が同じことをしたら、許されませんし、下手したら警察か病院行きでしょう。
警察か病院行きになるぐらいですから、明らかに、コミュニケーションの失敗です。
コミュニケーションとは、まず「理解」とは、そういうことで、自分で理解していないことは、相手もわからないのです。
だから、まず、自分が理解することが必要です。
そして、自分を理解するとは、たとえば先の画像の4つのうちのどれか、を自分で観ること、なのです。
理解とは、数学の計算を解くようなものではなくて、「観察すること」です。


たとえば、上の画像は、同一人物です。
この人が、でかい服を着ていた時に、「自分は太ってない」とか、太っている現実を見ずに「人を見た目で判断するなんて許させない」とか、そういうことを主張すると、この人とは、少なくともこの件に関して、まともなコミュニケーションがとれないのです。
何故かと言えば、自分を理解できてないから、です。
自分を理解できてないとは、自分を客観的に観れてない、ということです。
こういう人に、医者が「あなたは『肥満』ですから食べ物を控えるように」とか言おうものなら、医者の言ったことは「悪口」とか「差別」とか、そういうことにされてしまうのです。
すなわち、自分を観れていない人とのコミュニケーションは、周りにとって著しく困難となります。
そういう人は、結果的に、周りにものすごい労力を強いているのです。
しかし、逆に、このことがわかれば、理解なんて、とても簡単とも言えます。
体重計に乗って、表示されている数字が自分なんだと思えば良いのです。
思えば良いというか、本当は、現実にはそれしか無いのです。
そうじゃない自分を頭の中で作り上げるから、コミュニケーションがおかしくなるのです。
これが一般的な許容量を超えると、痛い女、とか、不思議ちゃん、とか、偏屈な男、とか、頑固おやじ、みたいに呼ばれるようになります。

ここまで読めば、世間で言われるコミュニケーション、いわゆる、相手を納得させる、説得させる技術みたいなのは、何かズレていることがわかるでしょう。
そんなことより先にすべきことがあって、それは自分を知ること、です。
仮に、あなたが病人で救急車を呼ぶとします。
この時に、救急隊員に嘘をつくと、相手はものすごく誠実で技術もあってあなたを助ける気が100%でも、コミュニケーションは破綻してしまいます。
たとえば、80キロだけど、自分は太ってない、とか。
たとえば、郊外に住んでいるのに、田園調布に住んでいる、とか。
たとえば、顔色が悪いのに、大丈夫と言い張る、とか。
おそらく、嘘ではなく、自分がそう思い込んでいるだけ、なのでしょうが、こんなことを救急隊員に言ったら、下手したら自分が死んでしまう可能性だってあるのです。
すなわち、コミュニケーションがうまくいかない、という訳です。

では、自分を観る、自分を知る、自分を理解するには、どうしたら良いでしょう。
それは、とても簡単です。
体重計に乗り数字を認識する。
体温をはかって数字を認識する。
鏡を見て、体型とか、顔色を認識する。
ただ、これだけ、です。
救急車を呼ぶ場合は、正確な住所と、このような情報提供で、助かる確率は飛躍的にアップします。
それは、コミュニケーションがうまくいったから、です。
これを「おれはもうだめだ~!」とか、「宇宙が守ってくれるから大丈夫!」とか、そういうことを言うと、コミュニケーションがとれず、リアルに本当に死ぬことだってあるのです。

これを踏まえて、もう1度、画像を見てみましょう。

この人が太っていた時に、太っていると悩んでいたとしましょう。
その際に、重要なのは、自分を知ること、です。
極端な話、自分の好きな人がデブ専だった場合、何もしなくてもハッピーエンドになる可能性だってあるのです。
自分は太っていることを悩んでいた気になっていたけど、実は恋愛に悩んでいた、みたいなケースは、よくあるものです。

そして、もう1度、画像を見てみましょう。

人生は、学校のテストのように、これが正しいという選択肢が1つだけなんてことはなく、どれを選んだって、結局は他人から文句を言われる可能性があるのですから、まず「自分がどうしたいか」です。
バイクで言えば、危ないから乗らない、でも、
1人で乗るのがカッコいい、でも、
彼女を後ろに乗せて走りたい、でも、
彼女の後ろに乗って走りたい、でも、何でも良いのです。
一番、やっちゃいけないのは、外野で文句だけ言うこと、です。
それは、バイクはうるさいから廃止しろ、とか、
一人で乗っている人は恋人とか居なくて可愛そう、とか、
彼女を後ろに乗せて走っている奴はチャラチャラしている、とか、
彼女の後ろに乗っているなんて軟弱だ、とか、
自分のことを棚に上げといて周りに、愚痴、泣き言、不平不満、悪口、などを言うことです。
外野で文句だけ言うのは、みっともないですし、「お前はどうしたいんだよ」というのも無いのですから、コミュニケーションが始まりようもありません。
そんなことは幼稚園児でも出来ること、です。
コミュニケーションが始まらないとは、自分が解ってないことで、自分が解ってない人が、自分の人生が始まりようがないのです。
たとえば、イチローが「野球をやりたい」という自分に気がつかなかったら、どうなっていたでしょうか。
ハワイに移住して幸せにしている日本人が、旅行でハワイに行かなかったとしたら、どうなっていたでしょう。
このように、自分が解ってないと、自分の人生が始まりようがないのです。
こうなると、金に魂を売るか、死んだ魚の目をして生きるか、スポーツ新聞や、女性週刊誌の見出しのように、他人の人生にとやかく言うだけの人生になってしまいます。
それは、「自分が無い」「自分が(解って)無い」から、そうなるのです。

コミュニケーションは、知っているじゃ駄目です。
色々と体験して経験して、自分が(解って)ないと、駄目なのです。
たとえば、あなたの住む町で、誰かが道に迷ったとします。
あなたが解っていれば、電話でも、その誰かを道案内できます。
なぜなら、解っているから、です。
日々、住む町をみてきたので、知っているのではなく、解っているのです。
一方、知っているだけの場合は、電話だとお手上げです。
自分自身でみてきてないので、案内しようが無いのです。
このように、まず自分の理解がないと相手には伝わらないのです。
ですから、誰かを納得とか説得とかする以前に、自分の理解を深めること、です。
自分の理解が深まれば、たとえ電話でも、相手に伝わるようになります。

ですから、コミュニケーションとは、まず「自己理解」です。
そして、その後に、「相互理解」があります。
でも、日本では、「自分がこう」という理解もないのに、いきなり、他人に理解を求めたり、説得を試みたりします。
でも、自分でも解らないことを言うと、相手はもっと解らない、のです。
ですから、まず自分を解ること、です。
正解や答えを探すのではなく、自分をみること、です。
画像で言えば、自分はどれか、と自分で解ることです。

言ってみれば、この4つのうちのどれもに、正義があり、正しさがあり、正解があり、答えがあると言えます。
ですから、重要なのは、
誰からも文句を言われない答えを探すとか、
周りの顔色をうかがって決めるとか、
宗教や学校に刷り込まれた答えは1つ神話を盲目的に信じることではなく、
「自分はどうしたいか」を「理解」することです。
そこから、はじめてコミュニケーションが出来るようになるのです。
