「素」と「無」
「たんこぶ作れ」の続き。
「素顔」や「素直」などの「素(す)」と、
「顔無し」や「何も無い」という「無(む)」は、似ているようで、全然違います。
何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」です。
何かやってきた人の「素」だけが、「素」になります。
たとえば、長年、料理を作ってきた人が、肩の力を抜いて料理をするのが、「素」です。
「たんこぶ作れ」で言えば、調理器具で怪我したことのある人の「素」が「素」です。
調理器具で怪我するのが嫌だから、料理をしてこなかった人が、いくらリラックスしてやっても、それは「無」なのです。
「素」を出そうにも、その「素」が「無い」からです。
たとえば、長年、運動をやってきた人が、肩の力を抜いて運動をするのが、「素」です。
「たんこぶ作れ」で言えば、運動で筋肉痛なり、足をつったり、怪我をしたことのある「素」が「素」です。
痛いのが嫌だから、運動をしてこなかった人が、いくらリラックスしてやっても、それは「無」なのです。
「素」を出そうにも、その「素」が「無い」からです。

何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」。
特に、若い人は、このことに早く気がついた方がいい。
でないと、「若さ」という隠れ蓑を失った時に、自分には何も「無い」ことに愕然となるでしょう。
何故なら、何も無い人は、「若さ」を「素」と勘違いしているだけ、だからです。
他人事なら、若いだけのお水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんが、10年後には何も無いのが、わかるハズです。
今は、若さという容姿に頼って、どれだけチヤホヤされていても、です。
でも、渦中にいる人は、この「若さ」を「素」だと勘違いしていていて、「無」だと言うことに気がつかないのです。
ものすごい可愛いお水系のお姉ちゃん、ものすごいカッコいいホストのお兄ちゃん。
そういう人と「10年後にデートできる権利」というものが売っているとしたら、あなたはいくらお金を出すでしょうか。
参考として、芸能人クラスでも、こうなります。




芸能人クラスでもお金を出さないのなら、そこそこの一般人なら、いわずもがな、です。
何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」。
何も無い人は、「若さ」を「素」と勘違いしているだけ、とは、こういうことです。

下の画像のバスケ部員は、飲み食いや暇つぶしに時間をつかっていましたが、ある時に、自分が「素」でなくて「無」であることに気がつき、涙しました。

「素」であろうとしても「無」で、いろいろと正当化して、避けてきてしまったことを後悔したのです。
でも、彼はまだ「泣ける」から良いのです。
大人になると、「やがて泣くことも出来なくなる」からです。
お水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんで喩えるなら、後悔の涙ではなくて、世間への恨みつらみになるのです。
みずみずしい感性は、鈍感なふてぶてしさに変化し「やがて泣くことも出来なくなる」のです。
ある程度まで体重を気にしていた人が、加齢と過重で、もうどうでもいいやと自暴自棄になる感じです。

何もやってこなかった人の「素」は、「無」です。
そして、「無」の人は、その「無」の責任を他人に責任転嫁します。
聞けば、それは自分がやってこなかったから、ではなく、景気や、世間や、他人が優しくないからだそうです。
それじゃ若さ頼みだったお水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんの言うことと、大差はありません。
残念ですが、これが日本の大人達の現状です。
一方、小林幸子さんのように「無」から、周りがやらないネットをやって「素」にしている人もいます。
・【小林幸子】ぼくとわたしとニコニコ動画を夏感満載で歌ってみた【ニコ動】
60歳を超えても、やれば出来る訳です。
しかし、みずみずしい感性が消えてしまった大人は、「その手があったか!」と賞賛するでもなく、「何で自分もそうしなかったのだろう」と泣く訳でもなく、ただただ自分がやってこなかった「無」の責任を、景気や世間や境遇に責任転嫁して、棚から牡丹餅を待ちます。
でも、棚から牡丹餅で、痩せないのです。
棚から牡丹餅で、筋肉もつきません。
棚から牡丹餅で、料理もうまくならないのです。
ただ、こういうことも神経が消えると、理解できなくなってしまいます。
大人になると、「やがて泣くことも出来なくなる」からです。
こうなるともう手遅れで、耳が聞こえなくなった人に大声で叫んでも聞こえないのと同じになってしまいます。
だから、まだ神経が残っているうちに、「たんこぶ作れ」なのです。
まだ神経が残っているうちに…。

「素顔」や「素直」などの「素(す)」と、
「顔無し」や「何も無い」という「無(む)」は、似ているようで、全然違います。
何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」です。
何かやってきた人の「素」だけが、「素」になります。
たとえば、長年、料理を作ってきた人が、肩の力を抜いて料理をするのが、「素」です。
「たんこぶ作れ」で言えば、調理器具で怪我したことのある人の「素」が「素」です。
調理器具で怪我するのが嫌だから、料理をしてこなかった人が、いくらリラックスしてやっても、それは「無」なのです。
「素」を出そうにも、その「素」が「無い」からです。
たとえば、長年、運動をやってきた人が、肩の力を抜いて運動をするのが、「素」です。
「たんこぶ作れ」で言えば、運動で筋肉痛なり、足をつったり、怪我をしたことのある「素」が「素」です。
痛いのが嫌だから、運動をしてこなかった人が、いくらリラックスしてやっても、それは「無」なのです。
「素」を出そうにも、その「素」が「無い」からです。

何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」。
特に、若い人は、このことに早く気がついた方がいい。
でないと、「若さ」という隠れ蓑を失った時に、自分には何も「無い」ことに愕然となるでしょう。
何故なら、何も無い人は、「若さ」を「素」と勘違いしているだけ、だからです。
他人事なら、若いだけのお水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんが、10年後には何も無いのが、わかるハズです。
今は、若さという容姿に頼って、どれだけチヤホヤされていても、です。
でも、渦中にいる人は、この「若さ」を「素」だと勘違いしていていて、「無」だと言うことに気がつかないのです。
ものすごい可愛いお水系のお姉ちゃん、ものすごいカッコいいホストのお兄ちゃん。
そういう人と「10年後にデートできる権利」というものが売っているとしたら、あなたはいくらお金を出すでしょうか。
参考として、芸能人クラスでも、こうなります。




芸能人クラスでもお金を出さないのなら、そこそこの一般人なら、いわずもがな、です。
何も無い人の「素」は、「素」でなくて「無」。
何も無い人は、「若さ」を「素」と勘違いしているだけ、とは、こういうことです。

下の画像のバスケ部員は、飲み食いや暇つぶしに時間をつかっていましたが、ある時に、自分が「素」でなくて「無」であることに気がつき、涙しました。

「素」であろうとしても「無」で、いろいろと正当化して、避けてきてしまったことを後悔したのです。
でも、彼はまだ「泣ける」から良いのです。
大人になると、「やがて泣くことも出来なくなる」からです。
お水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんで喩えるなら、後悔の涙ではなくて、世間への恨みつらみになるのです。
みずみずしい感性は、鈍感なふてぶてしさに変化し「やがて泣くことも出来なくなる」のです。
ある程度まで体重を気にしていた人が、加齢と過重で、もうどうでもいいやと自暴自棄になる感じです。

何もやってこなかった人の「素」は、「無」です。
そして、「無」の人は、その「無」の責任を他人に責任転嫁します。
聞けば、それは自分がやってこなかったから、ではなく、景気や、世間や、他人が優しくないからだそうです。
それじゃ若さ頼みだったお水系のお姉ちゃんや、ホストのお兄ちゃんの言うことと、大差はありません。
残念ですが、これが日本の大人達の現状です。
一方、小林幸子さんのように「無」から、周りがやらないネットをやって「素」にしている人もいます。
・【小林幸子】ぼくとわたしとニコニコ動画を夏感満載で歌ってみた【ニコ動】
60歳を超えても、やれば出来る訳です。
しかし、みずみずしい感性が消えてしまった大人は、「その手があったか!」と賞賛するでもなく、「何で自分もそうしなかったのだろう」と泣く訳でもなく、ただただ自分がやってこなかった「無」の責任を、景気や世間や境遇に責任転嫁して、棚から牡丹餅を待ちます。
でも、棚から牡丹餅で、痩せないのです。
棚から牡丹餅で、筋肉もつきません。
棚から牡丹餅で、料理もうまくならないのです。
ただ、こういうことも神経が消えると、理解できなくなってしまいます。
大人になると、「やがて泣くことも出来なくなる」からです。
こうなるともう手遅れで、耳が聞こえなくなった人に大声で叫んでも聞こえないのと同じになってしまいます。
だから、まだ神経が残っているうちに、「たんこぶ作れ」なのです。
まだ神経が残っているうちに…。
