どうしたいの? | プラクティス

どうしたいの?

このブログは、大人が読んでいるのでしょうか。

子供が読んでいるのでしょうか。

それは、こちらからではわかりません。わかりようがありません。

一言で文章と言っても、文章には様々なものがあります。

大人が読めば短い文章でも、子供が読めば長ったらしい文章になります。

その両方を兼ね備えた文章なんて、存在しません。

言ってみれば、小学生の読む文章と、新聞の社説では、同じ事を題材にしても、文章が違うのです。

小学生にとっては、新聞の社説は、長くて難しくて退屈でしょうが、大人にとっては、小学生の読む文章は、物足りないものになってしまいます。


最近では、活字離れが進んでいて、大人でも長い文章が読めなくなってきています。

そこに、ツィッターやら、ラインやらのチャットツールの台頭で、学業が本分である大学生でさえ長い文章が読めなくなっています。

特に、男子学生の言語運用能力の低下は著しく、面接の現場でも、女子学生に比べて劣っているというのが、もはや定説にまでなってきています。


現代文のテストをみればわかるように、国語力は、長文読解能力が問われます。

英語だってそうです。単文ではなく、長文読解能力が問われるのです。

そして、その長文読解能力。

有名私大の大学生でも、残念ながら、まったくと言って良いほど足りません。

それは何故かと言えば、マークシートで試験をパスしてしまったから、です。

英語で言えば、答えを4択から選ぶのと、英作文をしなければいけないのと、この難易度に、天と地ほどあるのは、誰でもわかるでしょう。

国語でも一緒です。


有名私大の子でも、選べるけど、言えない人は山ほど居ます。

そして、それが思考のクセになってしまって、それからずっと死ぬまでその思考法で過ごす人も山ほど居るのです。


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このブログを読んでいる人の年齢がいくつなのか。

それは、こちらでは知りようがありません。

そして、その答えは1つではなく、様々な年代の人が読んでいます。


ただ、多くの日本人に共通していることはあります。

それは、「自分の意見が不明」だと言う事です。

いろいろなことに不平不満を言う割には、「あなたはどうしたいの?」と聞かれると、黙ってしまうのです。


これが、マークシートで育った子供達の現在です。

選択肢がないと、選べないのです。

上司とか、先生とか、親とか、まず相手の顔色をうかがってから、選択をするクセが染み付いてしまっているのです。


以前、「Noと言えない日本人」というコピーがありましたが、正確に言うとそうではありません。

「No」が言えないどころか、「Yes」も言えないのです。

「Yes」とは、「あなたはどうしたいか」です。


なぜ、「あなたはどうしたいか」が言えないかと言えば、「自分の意見が不明」だからです。

なぜ、「自分の意見が不明」かと言えば、頭の中で作文ができないから、なのです。


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英語が出来ない人が、道に迷った場合。

親切な人が話しかけてきてくれても、自分がどうしたいのか表現できないでしょう。

なぜ表現できないか。

それは、英作文が出来ないからです。

これが、頭の中で作文ができない、ということです。

これは、英作文が、日本語の作文になっても同様です。


日本人なら誰でも作文が出来る、訳ではないのです。


単純に物理的な道なら、ジェスチャーを交えれば、コミュニケーションは可能です。

しかし、「2015年のあなたの道は?」と聞かれたどうでしょう。

これはもう、ジェスチャーじゃ、どうにもなりません。


普段、短い文章しか読んでない、書いてない人は、

せいぜい「元気で明るく」くらいしか、言えないでしょう。

で、具体的に、「あなたはどうしたいか」と聞かれると、黙ってしまうのです。

なぜ黙るかは、「自分がどうしたいのか」、「自分の意見が不明」で、頭の中で作文が出来ないからです。


くれぐれも言っておきますが、これはそういう人を責めているのではありません。

先に例に挙げた有名私大とは、早稲田、慶応などなので、言って見ればかなりのエリートでさえそうなのですから、何も気に病む必要はありません。

ただ日本全国が活字離れで、そうなってきて、今では、難しいという理由で、説明書も読めない大人が、増えているという由々しき事態になってきているというだけです。


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当たり前のことですが、活字を抜きに、作文は出来ません。

英単語を知らない人が、英作文を書くのは不可能なのと一緒です。

また、長文読解能力がない人が、長文を書けることもありません。

英語の長文は読めないけど、意味のある英語の長文は書ける、なんてことはあり得ないのです。


ですから、自分の意見を言えるようになるためには、長文読解能力がまず絶対に必要です。


しかし、これほど大事な能力の養成になるにも関わらず、厚い本離れ、薄い本が好まれ、資格などのための暗記など、日本の教育は、明後日の方向に向かっています。

それもそのはず。

先生でさえ厚い本は読んでいない有様なのです。

そして、目先の偏差値や点数をいかに上げるかという小手先のテクニックに走っています。

社会人で言えば、自己啓発本や、ハウツー本でしょう。

本さえ読まない人は、ブログやホームページ。

さらにそれさえ読むのが苦痛な人は、メール、ツィッター、ライン。

さらにそれも面倒くさい人は、読まない。

とこうなる訳です。


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「自分の意見」は、持つ、持たないという話ではありません。

自分の意見を持つとは、言葉のあやで、誰しも自分の意見は持っているのです。

ただ、「自分の意見が不明瞭」と「自分の意見が明瞭」の差は、ものすごくあります。

酔っぱらいだって、おそらく自分の意見があるのでしょうが、他者からすると、何を言っているのかわからないのです。


「自分の意見が不明瞭」だと、自分で自分が何をしたいのか不明になってしまいます。

それは、酔っぱらいが、自分で自分が何をしたいのか不明なのと一緒です。


若い人は、「自分の意見を言えるようになるためには、長文読解能力が絶対に必要」だとわかっても、「自分は厚い本を読むのは面倒だからいいや」と思うかもしれません。

しかし、そうやって、現在の「何を言っているのかわからない上司」が出来上がっているのです。

「自分の意見が不明瞭」な上司が、部下に的確に指示を下させる訳がないから、です。


誰だって会社が「ともかく元気に!」とかで回らないのはわかるでしょう。

でも、作文の能力がなかったら、そうとしか言えない大人になってしまうのです。

英語で言えば、「Let it go!」しか言えないようなものです。

部下に、「Let it go!」はいいから具体的に言ってくださいと言われて、黙ってしまうようでは、どの職場に行っても、ヤバいのです。

なぜなら、作文能力は、どの職場でも問われるからです。

そうなると、もう行くところは、ジェスチャーが通用するバイトしかなくなってしまいます。


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大人の活字離れは、単に出版業界がどうのこうのと言う話ではありません。

人間は、考える葦と言われますが、その考えるのに必要な作文能力という人間の根本をなす能力の問題なのです。

そこを鍛えないことには、「自分の意見さえ構築できなくなってしまう」のです。

つまり、「自分で、自分が何をしたいのか不明」という酔っぱらいのようになってしまうのです。


しかし、日本はとてもとても豊かな国なので、酔っぱらいでも大丈夫。

生きていけます。

ジェスチャーが通用するバイトでも、世界中が羨ましがる給料がもらえるからです。


ただ、ここで1つ真面目に考えておいた方がいいことがあります。

「自分で、自分が何をしたいのか不明」で良いのか、否か、です。

確かに、「自分で、自分が何をしたいのか不明」でも、生きてはいけます。

しかし、それは本当の意味で、生きているのでしょうか。


この答えは、あなたの心の奥底に眠っています。


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