今年の自分 来年の自分
今年もあと少しで、終わります。
年始と比べて、どれくらい自分は「成長した」でしょうか。
いくつ願い事を叶えたでしょうか。
もし、あまり変わり映えせず、願い事も叶えてなくても、大丈夫。
それが普通だからです。
決して自分が劣っている訳でも、駄目な訳でもありません。
周りを見渡してみれば、それが大多数だとわかるでしょう。

私事で言えば、私の周りでは「泳げる人が激増」しました。
それも「バタフライ」です。女性でも、アラサーでも、アラフォーでも、「バタフライ」です。
おそらく本職の水泳のインストラクター以外で、これだけ多くの人を泳げるようにした人は、日本でも希有でしょう。
先日は、クロールで25メートルも怪しかった人が、先日、100メートル個人メドレーまで泳げるようになりました。
しかし、このブログを読んでいる人は知っていると思いますが、こんなことを言っている当人のわたくしは、去年までカナヅチだったのです。

普通、カナヅチが、こういう夢を描きません。

何故なら、泳げないから、です。
そして、他の事でも多くの人が、こういう夢を描きません。
何故なら、今の自分が出来ないからです。
そして、ほとんどの大人は、今までやってきたことで何とかしようとしてしまうのです。
それを「現状維持」と言います。
今までした選択、やってきたことで上手くいってないのに、それをやり続けようとするのです。
それは、メタボの人が、今までと同じように食べ続けるようなもの。
マズい料理を出すお店が、マズい料理しか作れないからという理由で、マズい料理を作り続けるようなものです。

しかし、多くの主婦は納得するでしょうが、料理は難しくないのです。
それと同じくらい「バタフライ」も難しくありません。
しかし、旦那は「料理は出来ない」とか言いますし、妻は「バタフライは出来ない」とやってもいないのに、言うのです。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言うのです。
かつて、子供の頃にやって失敗したから、出来ないとか言うのです。
もう子供じゃないでしょうに。
そして、「料理は出来ない」と言う旦那に呆れる妻が、「バタフライは出来ない」と言う。
他にも「携帯は出来ない」とか、「パソコンは出来ない」とか、
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言うのです。
現代人は、みんなもうこんな感じ。
何だかもう、カオスです。

日本人は、ものすごく誤解していますが、「諸行無常」とは暗い言葉ではなく、ものすごく明るい言葉です。
あえて日本風に言うのであれば、「明日がある」という語感の方が近い。
で、「明日がある」かどうかは、当人が「今日の自分」と「明日の自分」のどちらを選ぶかにかかっているのです。
で、多くの人は、「今日の自分」を選びます。だから、「諸行無常」が暗いのです。
何と言うか、泳げない人が、「今日の泳げない自分と、明日の泳げる自分のどちらをとりますか?」と聞かれて、「今日の自分」を選んでしまうのです。
そして、お得意の「とれないリンゴは酸っぱい大作戦」です。
すなわち、泳げるようになっても死は避けられないのだから、やるだけ無駄、諸行無常だという極論を持ち出します。
あるいは、楽器を弾けたって、プロになってお金がもらえる訳じゃ無いから、やるだけ無駄、みたいな暴論です。
日本の諸行無常は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」的な、大嘘にまみれています。
だいたい、花はそういう屁理屈を言わないで咲くのです。日光があって、水があって、土があることに喜んで、一生懸命に咲くのです。
盛者必衰って、花はどうせ枯れるから咲かないとか、そういういじけた態度をとりません。
だいたい藤原三代の栄華も滅びるとかって、三代も続いたら十分でしょう。それに悲しめるのは、どれだけ欲深いのかという話です。
「風の前の塵に同じ」とか言う割には、この著者は『平家物語』を書いているのです。つまり、本当はそうだとは思ってないのです。
実際の「諸行無常」は、これとはまったく正反対と言えるものです。
すなわち、「今日の自分」と「明日の自分」は、常ならず。
噛み砕いて言えば、「変化する」、望めば「良くなれる」と言うことです。
一歩、動けば景色が変わる。二歩、動けば景色が変わる。
景色が変わらないのは、自分が大して動いてないから、だけなのです。
そして、自分から見える景色は、自分の行動に応じて、いくらでも変えられます。
わざわざ「明日の自分」と「今日の自分」を同じにしなければ、「明日の自分」はもっとすごく素敵になるのです。
自分の殻を打ち破って、「バタフライ」を泳げるようになった人たちが、その証明です。

来年のあなたは、今年と同じですか、違いますか。
それは、今のあなたの決断1つにかかっています。

年始と比べて、どれくらい自分は「成長した」でしょうか。
いくつ願い事を叶えたでしょうか。
もし、あまり変わり映えせず、願い事も叶えてなくても、大丈夫。
それが普通だからです。
決して自分が劣っている訳でも、駄目な訳でもありません。
周りを見渡してみれば、それが大多数だとわかるでしょう。

私事で言えば、私の周りでは「泳げる人が激増」しました。
それも「バタフライ」です。女性でも、アラサーでも、アラフォーでも、「バタフライ」です。
おそらく本職の水泳のインストラクター以外で、これだけ多くの人を泳げるようにした人は、日本でも希有でしょう。
先日は、クロールで25メートルも怪しかった人が、先日、100メートル個人メドレーまで泳げるようになりました。
しかし、このブログを読んでいる人は知っていると思いますが、こんなことを言っている当人のわたくしは、去年までカナヅチだったのです。

普通、カナヅチが、こういう夢を描きません。

何故なら、泳げないから、です。
そして、他の事でも多くの人が、こういう夢を描きません。
何故なら、今の自分が出来ないからです。
そして、ほとんどの大人は、今までやってきたことで何とかしようとしてしまうのです。
それを「現状維持」と言います。
今までした選択、やってきたことで上手くいってないのに、それをやり続けようとするのです。
それは、メタボの人が、今までと同じように食べ続けるようなもの。
マズい料理を出すお店が、マズい料理しか作れないからという理由で、マズい料理を作り続けるようなものです。

しかし、多くの主婦は納得するでしょうが、料理は難しくないのです。
それと同じくらい「バタフライ」も難しくありません。
しかし、旦那は「料理は出来ない」とか言いますし、妻は「バタフライは出来ない」とやってもいないのに、言うのです。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言うのです。
かつて、子供の頃にやって失敗したから、出来ないとか言うのです。
もう子供じゃないでしょうに。
そして、「料理は出来ない」と言う旦那に呆れる妻が、「バタフライは出来ない」と言う。
他にも「携帯は出来ない」とか、「パソコンは出来ない」とか、
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言う。
やってもいないのに、言うのです。
現代人は、みんなもうこんな感じ。
何だかもう、カオスです。

日本人は、ものすごく誤解していますが、「諸行無常」とは暗い言葉ではなく、ものすごく明るい言葉です。
あえて日本風に言うのであれば、「明日がある」という語感の方が近い。
で、「明日がある」かどうかは、当人が「今日の自分」と「明日の自分」のどちらを選ぶかにかかっているのです。
で、多くの人は、「今日の自分」を選びます。だから、「諸行無常」が暗いのです。
何と言うか、泳げない人が、「今日の泳げない自分と、明日の泳げる自分のどちらをとりますか?」と聞かれて、「今日の自分」を選んでしまうのです。
そして、お得意の「とれないリンゴは酸っぱい大作戦」です。
すなわち、泳げるようになっても死は避けられないのだから、やるだけ無駄、諸行無常だという極論を持ち出します。
あるいは、楽器を弾けたって、プロになってお金がもらえる訳じゃ無いから、やるだけ無駄、みたいな暴論です。
日本の諸行無常は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」的な、大嘘にまみれています。
だいたい、花はそういう屁理屈を言わないで咲くのです。日光があって、水があって、土があることに喜んで、一生懸命に咲くのです。
盛者必衰って、花はどうせ枯れるから咲かないとか、そういういじけた態度をとりません。
だいたい藤原三代の栄華も滅びるとかって、三代も続いたら十分でしょう。それに悲しめるのは、どれだけ欲深いのかという話です。
「風の前の塵に同じ」とか言う割には、この著者は『平家物語』を書いているのです。つまり、本当はそうだとは思ってないのです。
実際の「諸行無常」は、これとはまったく正反対と言えるものです。
すなわち、「今日の自分」と「明日の自分」は、常ならず。
噛み砕いて言えば、「変化する」、望めば「良くなれる」と言うことです。
一歩、動けば景色が変わる。二歩、動けば景色が変わる。
景色が変わらないのは、自分が大して動いてないから、だけなのです。
そして、自分から見える景色は、自分の行動に応じて、いくらでも変えられます。
わざわざ「明日の自分」と「今日の自分」を同じにしなければ、「明日の自分」はもっとすごく素敵になるのです。
自分の殻を打ち破って、「バタフライ」を泳げるようになった人たちが、その証明です。

来年のあなたは、今年と同じですか、違いますか。
それは、今のあなたの決断1つにかかっています。
