「漂流記」になってないか
「漂流記」の話。
ブログには色々なタイトルがついています。
ブログのタイトルはラベルのようなもので、果汁が1%しか入ってなくてもグレープ味と名乗れるジュースのように、タイトルと内容が99%くらい合っていないものも多くあります。
その中でも多いのが、タイトルはどうあれ、「漂流記」です。
「漂流記」とは、世間の海の上を漂(ただよ)う、流される記録です。
それは明るく書けば、今日は天気で良かった。今日は魚が釣れて良かった。今日はカモメさんが遊びに来た。
暗く書けば、最近は天気が悪い。最近は魚が釣れない。最近はカモメが遊びに来ない。
と、こんな感じです。
特徴として、「周りがどうこう」と言うばかりで、
「自分『が』どう思うかばかり」
「自分『を』どうしたいかが不明」
「目的地がない(コロコロ変わる)」
「判断の基準が、その時の気分」
などが挙げられます。
たとえば、学校で、「雨が最悪」とか「友達が最高」とか「給食うめぇ」とか、「周りがどうこう」と言うのはとても簡単です。
なぜなら、何も考えなくても言えるからです。
でも、そんなことより当人にとって大事なのは「進路」なハズです。
「進路」がなければ、漂流。
「進路」があっても、「進路」に向かってなければ、漂流です。
「雨が最悪」とか「友達が最高」とか「給食うめぇ」とかは、
具体的に言うと、
景気が最悪、会社が最悪、社会が最悪。
飲み会、女子会、オンラインゲームが最高。
ランチ、スイーツがうめぇなどです。
でも、そんなことより当人にとって大事なのは「進路」なハズです。
なぜなら「進路」がなければ、どこにもたどり着かないからです。
「進路」を決めない受験生に、「希望校の合格」は無い。
「希望校の合格」が無いと言う事は、「希望が無い」と言う事です。
すなわち、「進路」がなければ、「希望」がないのです。

海は、晴れの時もあれば、雨の時もあって、カモメが来る時も、カモメが来ない時もあります。
そして、「進路」がある人も、「進路」がない人も、同じような生活を送っています。
「進路」、すなわち、「希望」がある人には雨が降らない訳ではありませんし、
「希望」がないからと言って、晴れの日がない訳でもありません。
雪も同じように降るし、雷も同じようになります。
ただ、まったく同じ環境でも、
「進路」や「希望」がない人ほど、雨(周り)に文句を言うのです。
学校で言えば、授業がつまらないかどうかを決めるのは、当人の「進路」です。
授業そのものではありません。
もし、授業そのものなら、進路がある人も眠くなって寝てしまうハズです。
これを「進路」や「希望」がない人ほど、周り(先生や授業)に文句を言うのです。
これは、会社でもおもいっきり当てはまります。
「進路」や「希望」がない人ほど、会社がつまらないとか、仕事がどうこうとか言うのです。
でもそれは、受験生の話と一緒で、当人に「進路」や「希望」があるかどうか、なのです。

「進路」を決めない受験生が、「なりたい学生になる」ことはない。
「進路」を決めない社会人に、「なりたい自分になること」はありません。
まず、「進路」です。
自分でオールをこがずに、漂って流されていたら、早稲田大学に入っていたとか、そういうことは無いのです。
社会人で言うと、「なりたい自分になること」はない、と言う事です。
こうなる一番大きな要因は、「判断の基準が、その時の気分」という「気分」や「感情」に流されていること、です。
すなわち、我が強い、のです。
自分「が」、自分「が」の「我」が強いのです。
それをやりだしたら、「進路」がもう滅茶苦茶になってしまいます。
大学生になりたいけど、ゲームしたい感情に負けて、ゲームするとか。
理由は、自分「が」ゲームをしたかったから。
仕事の資格をとった方が良いけど、ネットしたい気分に負けて、ネットするとか。
理由は、自分「が」ネットをしたかったから。
痩せた方が良いけど、食べ物の誘惑に負けて、食べちゃうとか。
理由は、自分「が」食べたかったから。
自分「が」、自分「が」の「我」が強い。
こうなると、もう、何でもアリです。
で、想像してみてください。
そうやって漂流した先に、何があるでしょうか。

苫米地博士を含む自己啓発系とか、ワクワク系とか、スピリチュアル系とか、そういうのを求める人は、ほとんどの人が勘違いをしています。
それは、「成功者になると晴れの日が続く」というバカみたいな妄信です。
たとえば、結婚すると晴れの日が続く、とか、
お金持ちになると晴れの日が続く、とか、
なりたい自分になると晴れの日が続く、とか、
そういう妄想です。
その妄信が、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいな、ぜーんぶ周りのことなのです。
妄想する人は、物事をどんどん複雑にして、余計な説明原理をどんどん作り出します。
そして、ありもしないユートピアを妄想するばかりで、一向に良くならないのです。
たとえば、受験生で見てみましょう。
大学合格を目指す人と、ただ何となく授業を受けている人。
受けている授業は、まったく同じです。
ただ、「進路」があるかどうか、が違う。
そして、大学合格を目指す人は、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいな、そういう余計な妄想をしないのです。
さらに言うと、そういうものが全て無くても「やる」のです。
雨でも「やる」し、満員電車でも「やる」し、授業がつまらなくても「やる」のです。
晴れじゃなきゃやらない、満員電車では出来ない、授業がつまらないからやる気がしない、そうやって人のせいにしません。
さらにはそれらを正当化するために、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいに物事を複雑にしないのです。
漂流している人は、人や周りのせいにするのがとても上手で、やらない言い訳をどこまでもするのが生き甲斐みたいになっています。
自分からオールをこいだら良いのに、一向に自分からオールをこがない。
自分のこと(船)なのに、自分からオールをこぐのを執拗に避ける。
たまに1回か2回、オールをこいだりしても、すぐ止めてしまいます。
そうやって、ほんとーーーーーに、どこまでも、いつまでも人や環境のせいにします。
もっと酷い環境でもやっている人がいるのにも関わらず、です。
しかし、想像してみてください。
そうやって漂流していたら、将来、自分はどうなるでしょう。


「目を覚ませ、道を探せ」
ブログには色々なタイトルがついています。
ブログのタイトルはラベルのようなもので、果汁が1%しか入ってなくてもグレープ味と名乗れるジュースのように、タイトルと内容が99%くらい合っていないものも多くあります。
その中でも多いのが、タイトルはどうあれ、「漂流記」です。
「漂流記」とは、世間の海の上を漂(ただよ)う、流される記録です。
それは明るく書けば、今日は天気で良かった。今日は魚が釣れて良かった。今日はカモメさんが遊びに来た。
暗く書けば、最近は天気が悪い。最近は魚が釣れない。最近はカモメが遊びに来ない。
と、こんな感じです。
特徴として、「周りがどうこう」と言うばかりで、
「自分『が』どう思うかばかり」
「自分『を』どうしたいかが不明」
「目的地がない(コロコロ変わる)」
「判断の基準が、その時の気分」
などが挙げられます。
たとえば、学校で、「雨が最悪」とか「友達が最高」とか「給食うめぇ」とか、「周りがどうこう」と言うのはとても簡単です。
なぜなら、何も考えなくても言えるからです。
でも、そんなことより当人にとって大事なのは「進路」なハズです。
「進路」がなければ、漂流。
「進路」があっても、「進路」に向かってなければ、漂流です。
「雨が最悪」とか「友達が最高」とか「給食うめぇ」とかは、
具体的に言うと、
景気が最悪、会社が最悪、社会が最悪。
飲み会、女子会、オンラインゲームが最高。
ランチ、スイーツがうめぇなどです。
でも、そんなことより当人にとって大事なのは「進路」なハズです。
なぜなら「進路」がなければ、どこにもたどり着かないからです。
「進路」を決めない受験生に、「希望校の合格」は無い。
「希望校の合格」が無いと言う事は、「希望が無い」と言う事です。
すなわち、「進路」がなければ、「希望」がないのです。

海は、晴れの時もあれば、雨の時もあって、カモメが来る時も、カモメが来ない時もあります。
そして、「進路」がある人も、「進路」がない人も、同じような生活を送っています。
「進路」、すなわち、「希望」がある人には雨が降らない訳ではありませんし、
「希望」がないからと言って、晴れの日がない訳でもありません。
雪も同じように降るし、雷も同じようになります。
ただ、まったく同じ環境でも、
「進路」や「希望」がない人ほど、雨(周り)に文句を言うのです。
学校で言えば、授業がつまらないかどうかを決めるのは、当人の「進路」です。
授業そのものではありません。
もし、授業そのものなら、進路がある人も眠くなって寝てしまうハズです。
これを「進路」や「希望」がない人ほど、周り(先生や授業)に文句を言うのです。
これは、会社でもおもいっきり当てはまります。
「進路」や「希望」がない人ほど、会社がつまらないとか、仕事がどうこうとか言うのです。
でもそれは、受験生の話と一緒で、当人に「進路」や「希望」があるかどうか、なのです。

「進路」を決めない受験生が、「なりたい学生になる」ことはない。
「進路」を決めない社会人に、「なりたい自分になること」はありません。
まず、「進路」です。
自分でオールをこがずに、漂って流されていたら、早稲田大学に入っていたとか、そういうことは無いのです。
社会人で言うと、「なりたい自分になること」はない、と言う事です。
こうなる一番大きな要因は、「判断の基準が、その時の気分」という「気分」や「感情」に流されていること、です。
すなわち、我が強い、のです。
自分「が」、自分「が」の「我」が強いのです。
それをやりだしたら、「進路」がもう滅茶苦茶になってしまいます。
大学生になりたいけど、ゲームしたい感情に負けて、ゲームするとか。
理由は、自分「が」ゲームをしたかったから。
仕事の資格をとった方が良いけど、ネットしたい気分に負けて、ネットするとか。
理由は、自分「が」ネットをしたかったから。
痩せた方が良いけど、食べ物の誘惑に負けて、食べちゃうとか。
理由は、自分「が」食べたかったから。
自分「が」、自分「が」の「我」が強い。
こうなると、もう、何でもアリです。
で、想像してみてください。
そうやって漂流した先に、何があるでしょうか。

苫米地博士を含む自己啓発系とか、ワクワク系とか、スピリチュアル系とか、そういうのを求める人は、ほとんどの人が勘違いをしています。
それは、「成功者になると晴れの日が続く」というバカみたいな妄信です。
たとえば、結婚すると晴れの日が続く、とか、
お金持ちになると晴れの日が続く、とか、
なりたい自分になると晴れの日が続く、とか、
そういう妄想です。
その妄信が、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいな、ぜーんぶ周りのことなのです。
妄想する人は、物事をどんどん複雑にして、余計な説明原理をどんどん作り出します。
そして、ありもしないユートピアを妄想するばかりで、一向に良くならないのです。
たとえば、受験生で見てみましょう。
大学合格を目指す人と、ただ何となく授業を受けている人。
受けている授業は、まったく同じです。
ただ、「進路」があるかどうか、が違う。
そして、大学合格を目指す人は、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいな、そういう余計な妄想をしないのです。
さらに言うと、そういうものが全て無くても「やる」のです。
雨でも「やる」し、満員電車でも「やる」し、授業がつまらなくても「やる」のです。
晴れじゃなきゃやらない、満員電車では出来ない、授業がつまらないからやる気がしない、そうやって人のせいにしません。
さらにはそれらを正当化するために、「スイッチが入れば」とか、「宇宙にアクセスすれば」とか、「本当の自分に気づけば」とか、「お金があれば」とか、「出会いがあれば」みたいに物事を複雑にしないのです。
漂流している人は、人や周りのせいにするのがとても上手で、やらない言い訳をどこまでもするのが生き甲斐みたいになっています。
自分からオールをこいだら良いのに、一向に自分からオールをこがない。
自分のこと(船)なのに、自分からオールをこぐのを執拗に避ける。
たまに1回か2回、オールをこいだりしても、すぐ止めてしまいます。
そうやって、ほんとーーーーーに、どこまでも、いつまでも人や環境のせいにします。
もっと酷い環境でもやっている人がいるのにも関わらず、です。
しかし、想像してみてください。
そうやって漂流していたら、将来、自分はどうなるでしょう。


「目を覚ませ、道を探せ」