正解も変化する 顔と髪型
孫氏の兵法に「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず」と言う名言があります。
これは逆に言うと、「敵を知らない」「己を知らない」そういう場合は、「危ない」と言うことになります。
なのですが、現代人は、「敵を知らない」「己を知らない」、そして、「方法論だけ知っている」という人が、とても、とても、とても、多い。
しかも、そういう人は、「方法論が正しい」から、すなわち「自分は正しい」というロジックを当たり前のように使います。
そして、どんどん周りから浮いていってしまうのです。
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。

分かりやすい例を挙げましょう。
ある人が、雑誌でモテる髪型を見つけました。
なんだか、その髪型にすると、自分までモテそうです。
でも、端から見れば、その人の顔には似合わないとします。
若い頃の広末涼子が、無理してパーマをかけるようなものです。
そして、強引にパーマをかけて、当人的には満足だとします。
こういうのが、
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。
「方法論」に捕われて、「モテる」という目的のための「髪型」という手段が、
いつの間にか、手段が目的化して、その「髪型」になれれば、「モテ」なくても良い。
この「髪型」が正しいという風に、目的と手段が入れ替わってしまっているのです。
こういうのが、
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。
「方法論ばかり追いかけている」

顔と髪型といった目に見えるものでも、こうして見えなくなってしまう人は沢山います。
どう見ても似合わないのに、似合っているとか、
逆に、どう見てもお似合いなのに、似合ってないとか、
こういうのは、「敵を知らない」か、「己を知らない」のです。
「一体、何がしたいのか当人もよく分かってない」のです。
そして、こうすれば良い的な他人から得た受け売り、あるいは自分が昔やってうまくいった「方法論」にこだわり、振り回し、振り回されるのです。

物理的に目に見えることさえそうですから、目に見えないことに関しては、尚更、この傾向が強くなります。
書店や、ネットを見れば、
「この方法でうまく行く」とか、
「この方法が正解」とか、
「この方法は間違っている」とか、
そういう情報が沢山あります。
それらを振り回す人、それらに振り回される人、たくさん居ます。
しかし、それらは、
「万人に似合う髪型がある」
「万人に似合う服がある」
とか言うようなものです。
ある訳が無いのです。そんなものは。
広末涼子が、ロングヘアから、ショートヘアに変えてうまくいったとしても、自分が同じことをしてうまくいくかは、別問題なのです。
なぜなら、広末涼子と自分は、年齢も、顔も、髪質も違うからです。
これ、髪型や洋服など、まだ目に見えるから、話が通じるでしょう。
でも、この「ショートヘアでうまくいく」が、
「なんとか手帳でうまくいく」
「アフィリエイトでうまくいく」
「バイナリーオプションでうまくいく」
こういう風になったら、どうでしょうか。
あっさりと、訳が分かんなくなってしまう人が、多いのです。

訳が分かんなくなってしまう人の特徴に、
「一体、何がしたいのか当人もよく分かってない」ことが挙げられます。
病院へ行って、何をしようか忘れてしまう人は、まず居ません。
何故なら、目標が明確だからです。
自分の病気を診てもらうか、誰かのお見舞いに行くか、薬を処方してもらうか。
何にしろ、目的が明確です。
しかし、病院というところへ行けば、何か良いことがあるかもしれないというモチベーションの場合は、どうでしょう。
目的が不明瞭ですから、流されるまま、訳が分かんなくなってしまうのです。
この「目的がなくどこかへ行く」と、
「なんとか手帳でうまくいく」
「アフィリエイトでうまくいく」
「バイナリーオプションでうまくいく」
これらに流されるのは、まったく一緒です。
方法論が正しいか、正しくないか以前の問題です。
広末涼子が、ロングヘアからショートヘアにして成功したのは間違いなく正しい。
イコール、方法論が正しい訳ではないのです。
ここを混同してしまう人がとても多い。
なんたらでうまくいった人は、それでうまくいったのですから、そのやり方が正しいと言うに決まっています。
しかし、自分に、その方法論(髪型で言うとショートヘア)が合うかどうかは、別問題と言うことです。
方法論(髪型で言うとショートヘア)が、正しいか、正しくないかの問題ではないのです。

世の中には、独学で成功する人も居るし、通学で成功する人も居ます。
どちらかが向いている人も居ますし、どちらも向いている人も居ます。
代々木ゼミナールで合格する人も居ますし、駿台予備校で不合格になる人も居ます。
あるいは、スポーツなどで、プロの選手になる人も居ます。
公務員で息苦しくなってしまう人も居ますし、営業でいきいきする人も居ます。
何故こうなるかと言えば、大事なのは「方法論が正しいかどうか」ではなく、当人の資質と手段が一致するかどうかが重要、だからです。

しかし、世の中には、これらを無視して「自分が幸せにならない方法論に固執する」人が多いのです。
ちょっと意味が分からないかもしれませんが、これが現状です。
髪型で言うと、せっかくあてたパーマだから、失敗だけど、これで一生、生きて行こうとするようなものです。
で、当人が本当にそれを受け入れているかと言うと、話は別で、「そのパーマに合わないよ」とか言われると、さも自分自身を否定されたかのように「がーん」とショックを受けて、悲しんだり、怒ったり、そう言った人のデリカシーの無さを責めたりします。
でも、おかしいのです。
自分でちゃんと似合っていると思っているなら、ショックは受けるハズが無いからです。
失敗したと思っているところに図星をつかれたからショックを受けているのに、その失敗を正当化して、一体、その人は何をしたいのでしょう。
そう、「自分が幸せにならない方法論に固執する」ことをしたいのです。

「自分が幸せにならない方法論に固執する」のと、
「方法論ばかり追いかけている」のは、
どちらも、他人に操られたい、という点で、とても似ています。
自分に自信が無いから、間違いの無い答案のカンニングをしたい。
自分が無いから、方法論に頼りたい。
自分が無く方法論に頼るから、方法論を否定されると、自分まで否定されたように感じるのです。
でも、何度も言うように、広末涼子にショートヘアは正解でも、その人にショートヘアは正解とは、限らないのです。
社会は、学校のペーパーテストのように、ある1つの答えがある訳ではありません。
それなのに、ある1つの答えに固執する人が、とても多い。
それは、「自分が幸せにならない方法論に固執する」ことです。
正解、不正解とか、成功、失敗とかの判断しか出来ずに、
そもそも肝心なことが、よく分かってないのです。

そもそも肝心なこととは、何でしょう。
それは、「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず」です。
自分と相手を知らなければ、正解、不正解も、成功、失敗も、無いのです。
仮に、誰かに告白する場合。
相手が既婚者だったら、どんなラブレターも不正解、どんなアプローチも失敗になってしまいます。
逆に、相手がフリーでも、自分がのび太くんのままだったら、どんなラブレターも不正解、どんなアプローチも失敗になってしまいます。
すなわち、方法論の問題じゃないのです。

方法論より、大事なのは「敵を知り、己を知ること」です。
現代人は、このことに関して、あまりにも無関心です。
いま、自分について知っていることも、身長、体重、年齢くらいじゃないでしょうか。
女性だったら、そこに、バスト、ウエスト、ヒップくらい。
男性なら、さらに健康診断で異常とでた数値、くらいでしょう。
履歴書に書かれているような学歴などは、過去であり、いま現在の実力ではありません。
それくらいしか知らないのに、自分について知っていると思っているのです。
でも、これくらいの理解の人が、ある日、海に投げ出されたら、どうなるでしょう。
きっと、パニックになり、溺れてしまうでしょう。
何故そうなってしまうかと言うと、自分について知らず、海についても知らないからです。
マラソンなどもそうで、自分について知らず、道についても知らない人が、上位に行くことはありません。
クロールは、こういう風に腕を動かす。マラソンは、こういう風に足を動かす。
こういう方法論だけ知っていても、「敵を知り、己を知ること」がないと、危ういのです。

昨今の就職で、明確に言語化は出来なくても、文系が避けられ、理系や体育会系が求められているのも、こういう経緯があります。
理系や体育会系は、否応無しに、「敵を知る」ことを求められるからです。
一方、文系は、方法論の正しさだけで卒業できたりします。
そこに数学的な証明も、体育会系的な実技も必要ないのです。
さらに困ったことに、そもそもあまり頭を鍛えたくないから文系を志望する若者が多かったりします。
それは、体を鍛えたくないから帰宅部を選ぶ思考と、とても良く似ています。
しかし、学生時代に鍛えないで、いつ鍛えると言うのでしょうか。

現代では、「自分探し」が疫病のように「大流行」しています。
それについての「答え」みたいな本も沢山でていますし、ネットにも情報は沢山あります。
しかし、それらは「方法論」がほとんどなのです。
「自分探し」をしている人をよく観察してみましょう。
「自分探し」をしている人は、こうすれば自分は良くなるという「方法論ばかり追いかけている」ことに気がつくでしょう。
それは、のび太くんが、ドラえもんの道具を探し求めるようなものです。
本来の自分とは、今、ここ、鏡の前に居るのです。
探さなくても、今、ここ、鏡の前に居ます。
それは違うみたいなことを考えだすから、空想の世界から抜け出せなくなってしまうのです。
それが違うのではなく、それは違うと現実を認めないことが、違うのです。
これは、「己を知ろうとしない」もっとも典型的なパターンです。
「自分探し」と言いながら、「己を知ろうとしない」のですから、やっていることは、現実逃避に他なりません。

混迷する世の中では、多くの人が、答えや正解を求めてさまよいます。
しかし、そういう答えや正解があると思い込む、その思考こそが、危ういのです。
なぜなら、それは、思考停止そのものだからです。
この世は、自分の事情も変われば、相手の事情も変わるのです。
不動産業界、旅行産業、銀行、証券会社、消費者金融、IT企業…。
ある時まで、正解だった就職先が、ある時から不正解になることは、よくあることです。
ギリシャは増えすぎた公務員で国が傾きましたから、日本の公務員だって、いつどうなるか解ったものではありません。
絶世の美女も、20年も経てば、単なるおばさんです。
イケメンの顔だって、昔は石原裕次郎から、今は向井理まで、想像がつかないほど変化しています。
食品なら、昔はジューシーなものが売れましたが、今はヘルシーなものが売れると、180度も変化してしまいました。
ですから、これで大丈夫といった答えや正解は無いのです。
これが答えや正解と言った、ありもしないものを求めるのは、ありもしない蜃気楼を求めて彷徨うことに他ならないのです。

しかし、世の中がいくら変わっても、変わらないこともあります。
それが、「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず」です。
そして大人は、「方法論を求めない」こと。
「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めることです。
自分はこういう人だから。
我が社はこういう会社だから。
それで、不幸になるなら、変えた方が良いのです。
時代遅れになった髪は切って、新しい髪型にすればいいのです。
新しい髪型がうまく行くかどうか解らないと不安になる気持ちはわかりますが、その心配は杞憂です。
なぜなら、今が既に良くない、うまくいってないからです。
自分は今まで肉を食べてきた。我が社は今までジューシーな食品を作ってきた。
だから、何だと言うのでしょう。
若いうちはそれで健康になったけど、年をとって不健康になってきたなら、野菜を食べ、ヘルシーなものを作れば良いのです。
それだけ、です。
「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めることです。
自分を知ろうとせず、相手を知ろうとせず、方法論で決めようとしないことです。
世界は学校のペーパーテストではありません。
正解は無数にあり、その正解も個人の顔と髪型のように、その人によって正解だったり不正解だったりしますし、たとえ正解だったとしても時代の移り変わりと共に、いつの間にか不正解になっている場合もあります。
ですから、方法論で決めようとしないことです。
言い方を変えると、今の自分で出来ることで、決めないことです。
そういう「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めるのです。

世の中が常に変化する以上、
自分が一生、変わらないで済む方法なんて、無いのです。
でも、世間では、そればっかり求めています。
就職でも、結婚でも、資格でも、スキルでも、これで安泰(頭を使わなくて済む)といったものを求めます。
よくある、お金持ちになりたいといった願いも、これと大差ありません。
そうなれば、自分が一生、変わらないで済むと思えるからです。
でもこれらは、逆の言い方をすると、
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」
こう願っているということです。
だから、その願いに相応しい現実が、ちゃんと訪れるのです。

頭が良いとは、記憶力だけあるのとは、違います。
膨大な知識を詰め込み、難関な資格にパスしても、頭が悪い人が居るのはそのためです。
大学に入るまでは良かった。就職するまでは良かった。結婚するまでは良かった。
こういう人が沢山いるのは、そのためです。
そうなれば「頭を使わないで済む」と思って頑張ったから、それが叶って「愚か者」になってしまうのです。
大学生を見てみれば、このことが嘘でないのがわかるでしょう。
その願いに相応しい現実が、ちゃんと訪れるのです。

仮に、「愚か者」の手に大金が入っても、あっと言う間に消えてしまいます。
お金が入っても、維持が出来ないのです。
勉強をしない学生に、高級な寮と、最高のパソコンと、図書館のような書斎を用意しても、全てを無にしてしまうのです。
仮に、1000万円をかけても、リターンをゼロにして無にしてしまう。
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」という願いは、
どんなに恵まれても、それに相応しい現実にしてしまうのです。

ですから、こういう「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めるのです。
これで大丈夫、これで安心、こうすれば儲かる。
そういう方法論を探さないことです。
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」と願わないことです。
自分探しは、そういう方法論を探す別の表現に過ぎませんから、それも止めることです。
そして、「頭を使いたくない」から、「頭を使いたい」と決めることです。
動物と、人間の違いは、頭を使っているかどうか、否かにかかっています。
そして、頭を使うとは、方法論を探す、方法論にこだわるのではなく、
まず自分を知り、相手を知り、それを現実的なやり方で、どうしたいかを考えること、なのです。

これは逆に言うと、「敵を知らない」「己を知らない」そういう場合は、「危ない」と言うことになります。
なのですが、現代人は、「敵を知らない」「己を知らない」、そして、「方法論だけ知っている」という人が、とても、とても、とても、多い。
しかも、そういう人は、「方法論が正しい」から、すなわち「自分は正しい」というロジックを当たり前のように使います。
そして、どんどん周りから浮いていってしまうのです。
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。

分かりやすい例を挙げましょう。
ある人が、雑誌でモテる髪型を見つけました。
なんだか、その髪型にすると、自分までモテそうです。
でも、端から見れば、その人の顔には似合わないとします。
若い頃の広末涼子が、無理してパーマをかけるようなものです。
そして、強引にパーマをかけて、当人的には満足だとします。
こういうのが、
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。
「方法論」に捕われて、「モテる」という目的のための「髪型」という手段が、
いつの間にか、手段が目的化して、その「髪型」になれれば、「モテ」なくても良い。
この「髪型」が正しいという風に、目的と手段が入れ替わってしまっているのです。
こういうのが、
「敵を知らず、己を知らないから、百戦して、どれも危うい」のです。
「方法論ばかり追いかけている」

顔と髪型といった目に見えるものでも、こうして見えなくなってしまう人は沢山います。
どう見ても似合わないのに、似合っているとか、
逆に、どう見てもお似合いなのに、似合ってないとか、
こういうのは、「敵を知らない」か、「己を知らない」のです。
「一体、何がしたいのか当人もよく分かってない」のです。
そして、こうすれば良い的な他人から得た受け売り、あるいは自分が昔やってうまくいった「方法論」にこだわり、振り回し、振り回されるのです。

物理的に目に見えることさえそうですから、目に見えないことに関しては、尚更、この傾向が強くなります。
書店や、ネットを見れば、
「この方法でうまく行く」とか、
「この方法が正解」とか、
「この方法は間違っている」とか、
そういう情報が沢山あります。
それらを振り回す人、それらに振り回される人、たくさん居ます。
しかし、それらは、
「万人に似合う髪型がある」
「万人に似合う服がある」
とか言うようなものです。
ある訳が無いのです。そんなものは。
広末涼子が、ロングヘアから、ショートヘアに変えてうまくいったとしても、自分が同じことをしてうまくいくかは、別問題なのです。
なぜなら、広末涼子と自分は、年齢も、顔も、髪質も違うからです。
これ、髪型や洋服など、まだ目に見えるから、話が通じるでしょう。
でも、この「ショートヘアでうまくいく」が、
「なんとか手帳でうまくいく」
「アフィリエイトでうまくいく」
「バイナリーオプションでうまくいく」
こういう風になったら、どうでしょうか。
あっさりと、訳が分かんなくなってしまう人が、多いのです。

訳が分かんなくなってしまう人の特徴に、
「一体、何がしたいのか当人もよく分かってない」ことが挙げられます。
病院へ行って、何をしようか忘れてしまう人は、まず居ません。
何故なら、目標が明確だからです。
自分の病気を診てもらうか、誰かのお見舞いに行くか、薬を処方してもらうか。
何にしろ、目的が明確です。
しかし、病院というところへ行けば、何か良いことがあるかもしれないというモチベーションの場合は、どうでしょう。
目的が不明瞭ですから、流されるまま、訳が分かんなくなってしまうのです。
この「目的がなくどこかへ行く」と、
「なんとか手帳でうまくいく」
「アフィリエイトでうまくいく」
「バイナリーオプションでうまくいく」
これらに流されるのは、まったく一緒です。
方法論が正しいか、正しくないか以前の問題です。
広末涼子が、ロングヘアからショートヘアにして成功したのは間違いなく正しい。
イコール、方法論が正しい訳ではないのです。
ここを混同してしまう人がとても多い。
なんたらでうまくいった人は、それでうまくいったのですから、そのやり方が正しいと言うに決まっています。
しかし、自分に、その方法論(髪型で言うとショートヘア)が合うかどうかは、別問題と言うことです。
方法論(髪型で言うとショートヘア)が、正しいか、正しくないかの問題ではないのです。

世の中には、独学で成功する人も居るし、通学で成功する人も居ます。
どちらかが向いている人も居ますし、どちらも向いている人も居ます。
代々木ゼミナールで合格する人も居ますし、駿台予備校で不合格になる人も居ます。
あるいは、スポーツなどで、プロの選手になる人も居ます。
公務員で息苦しくなってしまう人も居ますし、営業でいきいきする人も居ます。
何故こうなるかと言えば、大事なのは「方法論が正しいかどうか」ではなく、当人の資質と手段が一致するかどうかが重要、だからです。

しかし、世の中には、これらを無視して「自分が幸せにならない方法論に固執する」人が多いのです。
ちょっと意味が分からないかもしれませんが、これが現状です。
髪型で言うと、せっかくあてたパーマだから、失敗だけど、これで一生、生きて行こうとするようなものです。
で、当人が本当にそれを受け入れているかと言うと、話は別で、「そのパーマに合わないよ」とか言われると、さも自分自身を否定されたかのように「がーん」とショックを受けて、悲しんだり、怒ったり、そう言った人のデリカシーの無さを責めたりします。
でも、おかしいのです。
自分でちゃんと似合っていると思っているなら、ショックは受けるハズが無いからです。
失敗したと思っているところに図星をつかれたからショックを受けているのに、その失敗を正当化して、一体、その人は何をしたいのでしょう。
そう、「自分が幸せにならない方法論に固執する」ことをしたいのです。

「自分が幸せにならない方法論に固執する」のと、
「方法論ばかり追いかけている」のは、
どちらも、他人に操られたい、という点で、とても似ています。
自分に自信が無いから、間違いの無い答案のカンニングをしたい。
自分が無いから、方法論に頼りたい。
自分が無く方法論に頼るから、方法論を否定されると、自分まで否定されたように感じるのです。
でも、何度も言うように、広末涼子にショートヘアは正解でも、その人にショートヘアは正解とは、限らないのです。
社会は、学校のペーパーテストのように、ある1つの答えがある訳ではありません。
それなのに、ある1つの答えに固執する人が、とても多い。
それは、「自分が幸せにならない方法論に固執する」ことです。
正解、不正解とか、成功、失敗とかの判断しか出来ずに、
そもそも肝心なことが、よく分かってないのです。

そもそも肝心なこととは、何でしょう。
それは、「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず」です。
自分と相手を知らなければ、正解、不正解も、成功、失敗も、無いのです。
仮に、誰かに告白する場合。
相手が既婚者だったら、どんなラブレターも不正解、どんなアプローチも失敗になってしまいます。
逆に、相手がフリーでも、自分がのび太くんのままだったら、どんなラブレターも不正解、どんなアプローチも失敗になってしまいます。
すなわち、方法論の問題じゃないのです。

方法論より、大事なのは「敵を知り、己を知ること」です。
現代人は、このことに関して、あまりにも無関心です。
いま、自分について知っていることも、身長、体重、年齢くらいじゃないでしょうか。
女性だったら、そこに、バスト、ウエスト、ヒップくらい。
男性なら、さらに健康診断で異常とでた数値、くらいでしょう。
履歴書に書かれているような学歴などは、過去であり、いま現在の実力ではありません。
それくらいしか知らないのに、自分について知っていると思っているのです。
でも、これくらいの理解の人が、ある日、海に投げ出されたら、どうなるでしょう。
きっと、パニックになり、溺れてしまうでしょう。
何故そうなってしまうかと言うと、自分について知らず、海についても知らないからです。
マラソンなどもそうで、自分について知らず、道についても知らない人が、上位に行くことはありません。
クロールは、こういう風に腕を動かす。マラソンは、こういう風に足を動かす。
こういう方法論だけ知っていても、「敵を知り、己を知ること」がないと、危ういのです。

昨今の就職で、明確に言語化は出来なくても、文系が避けられ、理系や体育会系が求められているのも、こういう経緯があります。
理系や体育会系は、否応無しに、「敵を知る」ことを求められるからです。
一方、文系は、方法論の正しさだけで卒業できたりします。
そこに数学的な証明も、体育会系的な実技も必要ないのです。
さらに困ったことに、そもそもあまり頭を鍛えたくないから文系を志望する若者が多かったりします。
それは、体を鍛えたくないから帰宅部を選ぶ思考と、とても良く似ています。
しかし、学生時代に鍛えないで、いつ鍛えると言うのでしょうか。

現代では、「自分探し」が疫病のように「大流行」しています。
それについての「答え」みたいな本も沢山でていますし、ネットにも情報は沢山あります。
しかし、それらは「方法論」がほとんどなのです。
「自分探し」をしている人をよく観察してみましょう。
「自分探し」をしている人は、こうすれば自分は良くなるという「方法論ばかり追いかけている」ことに気がつくでしょう。
それは、のび太くんが、ドラえもんの道具を探し求めるようなものです。
本来の自分とは、今、ここ、鏡の前に居るのです。
探さなくても、今、ここ、鏡の前に居ます。
それは違うみたいなことを考えだすから、空想の世界から抜け出せなくなってしまうのです。
それが違うのではなく、それは違うと現実を認めないことが、違うのです。
これは、「己を知ろうとしない」もっとも典型的なパターンです。
「自分探し」と言いながら、「己を知ろうとしない」のですから、やっていることは、現実逃避に他なりません。

混迷する世の中では、多くの人が、答えや正解を求めてさまよいます。
しかし、そういう答えや正解があると思い込む、その思考こそが、危ういのです。
なぜなら、それは、思考停止そのものだからです。
この世は、自分の事情も変われば、相手の事情も変わるのです。
不動産業界、旅行産業、銀行、証券会社、消費者金融、IT企業…。
ある時まで、正解だった就職先が、ある時から不正解になることは、よくあることです。
ギリシャは増えすぎた公務員で国が傾きましたから、日本の公務員だって、いつどうなるか解ったものではありません。
絶世の美女も、20年も経てば、単なるおばさんです。
イケメンの顔だって、昔は石原裕次郎から、今は向井理まで、想像がつかないほど変化しています。
食品なら、昔はジューシーなものが売れましたが、今はヘルシーなものが売れると、180度も変化してしまいました。
ですから、これで大丈夫といった答えや正解は無いのです。
これが答えや正解と言った、ありもしないものを求めるのは、ありもしない蜃気楼を求めて彷徨うことに他ならないのです。

しかし、世の中がいくら変わっても、変わらないこともあります。
それが、「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず」です。
そして大人は、「方法論を求めない」こと。
「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めることです。
自分はこういう人だから。
我が社はこういう会社だから。
それで、不幸になるなら、変えた方が良いのです。
時代遅れになった髪は切って、新しい髪型にすればいいのです。
新しい髪型がうまく行くかどうか解らないと不安になる気持ちはわかりますが、その心配は杞憂です。
なぜなら、今が既に良くない、うまくいってないからです。
自分は今まで肉を食べてきた。我が社は今までジューシーな食品を作ってきた。
だから、何だと言うのでしょう。
若いうちはそれで健康になったけど、年をとって不健康になってきたなら、野菜を食べ、ヘルシーなものを作れば良いのです。
それだけ、です。
「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めることです。
自分を知ろうとせず、相手を知ろうとせず、方法論で決めようとしないことです。
世界は学校のペーパーテストではありません。
正解は無数にあり、その正解も個人の顔と髪型のように、その人によって正解だったり不正解だったりしますし、たとえ正解だったとしても時代の移り変わりと共に、いつの間にか不正解になっている場合もあります。
ですから、方法論で決めようとしないことです。
言い方を変えると、今の自分で出来ることで、決めないことです。
そういう「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めるのです。

世の中が常に変化する以上、
自分が一生、変わらないで済む方法なんて、無いのです。
でも、世間では、そればっかり求めています。
就職でも、結婚でも、資格でも、スキルでも、これで安泰(頭を使わなくて済む)といったものを求めます。
よくある、お金持ちになりたいといった願いも、これと大差ありません。
そうなれば、自分が一生、変わらないで済むと思えるからです。
でもこれらは、逆の言い方をすると、
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」
こう願っているということです。
だから、その願いに相応しい現実が、ちゃんと訪れるのです。

頭が良いとは、記憶力だけあるのとは、違います。
膨大な知識を詰め込み、難関な資格にパスしても、頭が悪い人が居るのはそのためです。
大学に入るまでは良かった。就職するまでは良かった。結婚するまでは良かった。
こういう人が沢山いるのは、そのためです。
そうなれば「頭を使わないで済む」と思って頑張ったから、それが叶って「愚か者」になってしまうのです。
大学生を見てみれば、このことが嘘でないのがわかるでしょう。
その願いに相応しい現実が、ちゃんと訪れるのです。

仮に、「愚か者」の手に大金が入っても、あっと言う間に消えてしまいます。
お金が入っても、維持が出来ないのです。
勉強をしない学生に、高級な寮と、最高のパソコンと、図書館のような書斎を用意しても、全てを無にしてしまうのです。
仮に、1000万円をかけても、リターンをゼロにして無にしてしまう。
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」という願いは、
どんなに恵まれても、それに相応しい現実にしてしまうのです。

ですから、こういう「自分が幸せにならない方法論に固執する」のを止めるのです。
これで大丈夫、これで安心、こうすれば儲かる。
そういう方法論を探さないことです。
「頭を使いたくない」=「愚か者になりたい」と願わないことです。
自分探しは、そういう方法論を探す別の表現に過ぎませんから、それも止めることです。
そして、「頭を使いたくない」から、「頭を使いたい」と決めることです。
動物と、人間の違いは、頭を使っているかどうか、否かにかかっています。
そして、頭を使うとは、方法論を探す、方法論にこだわるのではなく、
まず自分を知り、相手を知り、それを現実的なやり方で、どうしたいかを考えること、なのです。
