悟りについて
「やる気が有ろうが無かろうが」について、スレ違いのようで、スレ違いではない良い質問が来ましてので、紹介します。
Q.「スレ違いですが。」
「悟りと縁起とはなんでしょう?」
A.コメント欄にて。


・解説
単なる偶然かとは思いますが、実は、なかなか良いタイミングの質問です。
なぜなら、「悟り」やら「縁起」を会得するのに、「やる気が有ろうが無かろうが」やることが、とても役立つからです。
ここでは、「悟り」やら「縁起」って何と言う人のために、ものすごく簡単に説明します。
「悟り」は、ありとあらゆることに対して「諸行無常」を感じている状態。
「縁起」とは、全てのものは「諸行無常」で、であるからこそ、関係性は目まぐるしく変わっていく、ということです。
一体、何のことだか分らないと思うので、具体例を挙げます。
人間の成長スピードを10倍にして、1年で、10歳も年をとってしまうとしましょう。
だとしたら、恋や好感の感情が、単なる幻であると言うことが、わかるでしょう。
写真で言えば、2年で、上から下になると言うことです。




どうでしょう。
これなら誰でも、「諸行無常」を感じられるでしょう。
上でも下でも変わらず同じくらい好きと言う人は、限りなくゼロで、
上は、「恋人として居たい」
下は、「他人として居たい」
と言うぐらい180度も、縁起(関係性)が変わるのも理解できるでしょう。
「諸行無常」は、真実ですが、人は、5年、10年しないと気が付かないのです。
何と言うか、親が自分の子供の変化に気が付かずに、かえって、親せきの方が、子供の変化にビックリするのと同じです。
これを5年、10年しないで、1日や2日でも、変化に気が付けるのを「悟り」と言います。
なぜならそれは、世の中は常ならぬこと「諸行無常」を忘れてないからです。
逆に、変化に気が付けていない状態を「無明」と言います。
なぜなら、変化に気が付けないのは何も見えていない盲目の状態と同じ、だからです。
写真の例で、言えば、盲目の状態の二人が、以下の状態がずっと続くと夢見て、結婚するようなものです。


二人は、変化するなんて、思ってもいないのです。
二人は永遠に変わらないんだそうです。
世の中は「諸行無常」でも、自分たちは特別くらい思っています。
こういう目の前のことしか見えてないことを明かりが無い状態、「無明」と言います。
で、年をとると、お互い「思っていたのと違う!」ということになり、喧嘩になり、離婚したりするのです。


興味深いことに、永遠の誓い、とか、愛は永遠とか言っている人ほど、自分自身でそれを破ります。
自分のことは棚に上げて、「これは違かった」みたいなことを平気で言って、真実の愛、運命の出会いなどを探すのです。
こういうのも「無明」と言います。
なぜなら、何も見えてなく、何も学んでなく、また数年経ったら、同じことを繰り返すからです。
どんだけエゴイスティックになって、どんだけ望んでも、願っても、
人は、この状態のままで、ずっと付き合っていくということは、不可能なのです。
若い時の様にとか、出会った頃のままでとか、いつまでも若いままでとかは不可能。


でも、それを望む。
それが「諸行無常」を受け入れない「無明」のはじまりです。
望んでも良いのですが、老けたら冷めるって、それは「愛」なのでしょうか。
「無明」は、そういうことも見えなくし、ありもしない「妄想」に「永遠の愛」とかラベルして、その美酒を飲み幻想に浸ってしまうのです。
老けたら冷めたから、魔法の何かで温め直して、若返ったらまた熱くなるかも…。
人は、そういう「妄想」に、「永遠の命」とか「復活」とか「再生」とラベルして、その美酒を飲み幻想に浸ってしまうのです。
これは、「悟り」からは最も遠い状態であることは、誰にでも、何となく理解できるでしょう。


Q.「スレ違いですが。」
「悟りと縁起とはなんでしょう?」
A.コメント欄にて。


・解説
単なる偶然かとは思いますが、実は、なかなか良いタイミングの質問です。
なぜなら、「悟り」やら「縁起」を会得するのに、「やる気が有ろうが無かろうが」やることが、とても役立つからです。
ここでは、「悟り」やら「縁起」って何と言う人のために、ものすごく簡単に説明します。
「悟り」は、ありとあらゆることに対して「諸行無常」を感じている状態。
「縁起」とは、全てのものは「諸行無常」で、であるからこそ、関係性は目まぐるしく変わっていく、ということです。
一体、何のことだか分らないと思うので、具体例を挙げます。
人間の成長スピードを10倍にして、1年で、10歳も年をとってしまうとしましょう。
だとしたら、恋や好感の感情が、単なる幻であると言うことが、わかるでしょう。
写真で言えば、2年で、上から下になると言うことです。




どうでしょう。
これなら誰でも、「諸行無常」を感じられるでしょう。
上でも下でも変わらず同じくらい好きと言う人は、限りなくゼロで、
上は、「恋人として居たい」
下は、「他人として居たい」
と言うぐらい180度も、縁起(関係性)が変わるのも理解できるでしょう。
「諸行無常」は、真実ですが、人は、5年、10年しないと気が付かないのです。
何と言うか、親が自分の子供の変化に気が付かずに、かえって、親せきの方が、子供の変化にビックリするのと同じです。
これを5年、10年しないで、1日や2日でも、変化に気が付けるのを「悟り」と言います。
なぜならそれは、世の中は常ならぬこと「諸行無常」を忘れてないからです。
逆に、変化に気が付けていない状態を「無明」と言います。
なぜなら、変化に気が付けないのは何も見えていない盲目の状態と同じ、だからです。
写真の例で、言えば、盲目の状態の二人が、以下の状態がずっと続くと夢見て、結婚するようなものです。


二人は、変化するなんて、思ってもいないのです。
二人は永遠に変わらないんだそうです。
世の中は「諸行無常」でも、自分たちは特別くらい思っています。
こういう目の前のことしか見えてないことを明かりが無い状態、「無明」と言います。
で、年をとると、お互い「思っていたのと違う!」ということになり、喧嘩になり、離婚したりするのです。


興味深いことに、永遠の誓い、とか、愛は永遠とか言っている人ほど、自分自身でそれを破ります。
自分のことは棚に上げて、「これは違かった」みたいなことを平気で言って、真実の愛、運命の出会いなどを探すのです。
こういうのも「無明」と言います。
なぜなら、何も見えてなく、何も学んでなく、また数年経ったら、同じことを繰り返すからです。
どんだけエゴイスティックになって、どんだけ望んでも、願っても、
人は、この状態のままで、ずっと付き合っていくということは、不可能なのです。
若い時の様にとか、出会った頃のままでとか、いつまでも若いままでとかは不可能。


でも、それを望む。
それが「諸行無常」を受け入れない「無明」のはじまりです。
望んでも良いのですが、老けたら冷めるって、それは「愛」なのでしょうか。
「無明」は、そういうことも見えなくし、ありもしない「妄想」に「永遠の愛」とかラベルして、その美酒を飲み幻想に浸ってしまうのです。
老けたら冷めたから、魔法の何かで温め直して、若返ったらまた熱くなるかも…。
人は、そういう「妄想」に、「永遠の命」とか「復活」とか「再生」とラベルして、その美酒を飲み幻想に浸ってしまうのです。
これは、「悟り」からは最も遠い状態であることは、誰にでも、何となく理解できるでしょう。

