灌仏会 | プラクティス

灌仏会



本堂


4月8日。灌仏会。

灌仏会(かんぶつえ)は、お釈迦様の誕生を祝う仏教行事です。


今日こそ努め励むべきなり、だれが明日の死を知ろう。

されば死の大群に、我ら煩うことなし。

昼夜怠ることなく、かように住み、励む。

こはまさに「日々好日」と、寂静者なる牟尼は説く。


今回は、灌仏会を祝して、真面目に「励む」の正反対の「怠る」の筆頭「被害妄想」について語ってみます。


で、いきなり本題に入りますが、日本人の「被害妄想」には、ものすごいものがあります。

「被害妄想」のレベルで言ったら、おそらく世界一でしょう。

世界では、まともな家どころか食べ物もなく明日食べるものが無いと心配する人が居る一方で、日本人はこれだけ豊かなになっても、まだあれがない、これがない、将来が心配など「被害妄想」に耽っているからです。

働かないで生きていけている人でさえ、「被害妄想」に苦しんでいます。


しかし、「被害妄想」は、「妄想」なのです。

「妄想」とは当人の脳の中の話なのですから、当人が「被害妄想」を止めれば、それで済む話です。

現実問題、働かないで生きていけている人と、働きたいけど働けなくて明日食べる物もない人のどちらが現実的に不幸かと言えば、間違いなく後者です。

でも、「妄想」の世界は何でもアリですから、当人が世界一不幸だと思えば、どんなに恵まれていても世界一不幸になるのです。

たとえ、どんなに恵まれていても、です。


お釈迦様は、この「妄想」こそが諸悪の根源だから、「妄想」をするのを止(と)めなさいと説きました。

それで多くの人が、「妄想」を止(と)めて、救われました。

それは喩えるなら、嫉妬深く疑り深い人が、実際には浮気の「う」の字も無い恋人に対して、浮気をしているのではないかと「妄想」してしまうのを止(と)めて、幸せになるようなものです。

幸せになりたくてやっていたことが、実は自分を一番不幸にしている。

この時、当人が「幸せになりたい」という心に正直になって、「妄想」を止(と)めれば、人は一瞬にして幸せになるのです。

なぜなら、不幸の原因が「被害妄想」な場合、「被害妄想」がなくなれば、不幸そのものがなくなるからです。


しかし、こういう例は少なく、多くは「被害妄想」を止(と)めようとはしませんし、「被害妄想」こそが現実だと言って譲らないのです。

恋人が浮気をしてなくても、聞き入れませんし、事実してなかったとしても、「これからするかもしれない」みたいに「被害妄想」に耽ってしまうのです。

これは分りやすく極端な例ですが、「被害妄想」という観点から見れば、日本人が、世界では日本の人口より多い人々が、明日食べる物もなくて困っているなかで、将来の年金が心配だと言ってられるのも、十分に「被害妄想」なのです。

なぜ「被害妄想」かは、いま飢えて死にそうな子に、「自分も失職や将来の年金が心配だよ」とか言ってみればわかります。

当面食うに困ってないじゃないか、とその子が言っても、聞き入れませんし、事実そうだとしても、「これからするかもしれない」みたいに「被害妄想」に耽ってしまうのです。

特に、「これからするかもしれない」と言い出すと、今の幸福が感じられません。

1秒後も、「これからが心配」、10秒後も、「これからが心配」。

その調子で行ったら何百秒先も「これからが心配」で、その何百秒の時間の間、ずっと不幸になってしまいます。

結果的に、「これからが心配」は、健康な人が「明日、死ぬかもしれない」と考えるのと同じくらい「被害妄想」なのです。


お釈迦様は言います。

「妄想」は、止(と)めましょう、と。

その上で、現実的にやれることをやっていきましょう、と。

試験に合格するか不安で眠れない人は、その「被害妄想」を止(と)めて、勉強すれば、眠れるものなのです。

これからが心配も同じで、その「被害妄想」を止(と)めて、やれることを1つ1つやっていけば、眠れるものなのです。

行動は雄弁です。行動こそが幸せの道です。

「妄想」は、その行動を止めてしまいます。

そして、「妄想」が「妄想」を呼び、どんどん行動しなくなってしまうのです。

行動こそが幸せの道なのに、「妄想」はそれを阻害してしまうのです。

止(と)めるべきは、歩みではなく妄想です

歩みを止めて幸せになった気になっても、それはマッチ売りの少女の妄想と一緒だからです。

その妄想の中で、お姫様になっても、神に愛されても、王子様が現れても、お金持ちになっても、至福体験をしても、それは、言うまでもなく、本当の幸せではありません。

止(と)めるべきは、妄想。

止(と)めてはいけないのは、歩みです。

歩みは、止まることが少ないと書きます。

千里の道も一歩から。

たとえ、目的地がどれだけ遠くに感じられても、歩みを止めなければ、辿り着くものなのです。

しかし、歩みを止めてしまったら、ゴールにたどり着くことは一生ありません。

諦めたら、そこで試合終了です。

そして、諦めなくても、妄想に耽って歩みを止めたら、結果は同じことなのです。


行動することです。歩みを止(と)めず、妄想を止(と)めて、歩み続けることです。

山登りでも、人生でも、人は自分の足で、自分の力で山に登るから、頂上に着いた時に気持ちいいし、清々しいし、生きている実感がわくのですから。


みんなが妄想を止(と)めて、自分の道を歩きはじめますように。
(^人^)

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