枯れた花の寂しさ | プラクティス

枯れた花の寂しさ

青春は、過ぎ去ってから、思うもの。




元気があれば、何でも出来る。

若い内はやりたいことが、何でも出来る。


こういう言葉は、若い内は全然ピンと来ないでしょう。

ピンと来ないことは、ある意味、幸せです。

ですが、まったくピンと来ないことは、ある意味、不幸なことです。


何故かと言うと、わかった時には、もう遅いから、です。


人は、病気や怪我をした時に、健康の有難味を知ります。

たとえば、腰などを痛めると、たったそれだけで全身が動かなくなります。

旅行はおろか、近所のコンビニさえ行くことが出来なくなるのです。


その時に、「健康な時は、やりたいことが、何でも出来る」と知るのです。


ただ、健康に戻ると、そのことを忘れて、ゴロゴロしてしまう。

ゴロゴロ出来ることは幸せですが、その一方で、やりたいことが、何でも出来るのを忘れて、ゴロゴロしてしまうことは不幸なのです。


若い内はやりたいことが、何でも出来ると言うのは、裏を返すと、年をとると体の自由がきかなくなって、出来ないことが増えてくる、ということです。

疲れやすくなりますし、徹夜なんて、とてもじゃないけど出来なくなります。

目も悪くなりますし、老眼も進みます。

肥満で、膝や腰を悪くして、走ることが出来ない大人は沢山います。

走らないと足腰が弱くなり、フットワークが重くなるので、何をするにも億劫になります。

億劫になって足が弱ると、好奇心も衰えて、さらに弱ってくるという不健康のスパイラルに入ってしまうのです。


体が不健康になると、情緒も不安定になり、ちょっとしたことでキレたり、嘆き悲しんだりするようになります。

高齢化のストレスフルな社会は、こうして形成されていきます。


悩みじゃなくて老化


その昔、「薔薇は、薔薇は気高く咲いて、薔薇は、薔薇は美しく散る」という歌がありました。

一花咲かせて終わるのか。

花を咲かせずに枯れるのか。

薔薇が枯れるのと、薔薇が散るのは、同じ終わりですが、意味が全然違います。


枯れた花の寂しさは、元気なままじゃわからないのです。

元気なうちはいつでも咲けると思いがちですが、その元気は、思うほど長くは続かないのです。


人は、咲こうと思わなければ、咲きません。

一花咲かせようと思う人だけが、一花咲かせられるのです。


たとえば大学合格の華は、どんなに偏差値が低くても、1年間、勉強すれば咲きます。

大事なのは、能力ではなくて、一花咲かせようとするかどうか、ということです。

他にも、仕事だろうが、楽器だろうが、スポーツだろうが、一緒です。

一花咲かせようとするかどうか、です。


青春は、過ぎ去ってから、思うもの。

青春時代は、その価値に気が付かずに、無為に過ごしてしまいがちです。

でも、もっと有効に活用すれば、もっと輝くのです。


人生も、これと一緒です。

人生は、その価値に気が付かずに、無為に過ごしてしまいがちなのです。


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