その感動は作り物かもしれない

人間という生き物は、映画のスクリーンに映し出されたものをさも自分のことのように体験できる生き物です。
ですから、自然と美しいものへと引き寄せられます。
これが、美は魔術であると言われるゆえんです。
今のテレビが美男美女が多いのも、アニメのキャラクターで美形が求められるのも、要はその方が、投影した時に、自分が気持ち良いから、です。
でも、これはリアルな自分とは何の関係も無い話です。
ここをよく心得ておかないと、リアルな感動と作り物の感動の区別がわからなくなってしまいます。
たとえば、TVで羽生くんや真央ちゃんが、美男美女じゃなかったら、どうでしょう。
もし、羽生くんや真央ちゃんが、中国や韓国の選手だったら、どうだったでしょう。
同じように感動したでしょうか。
どうでしょう。
本当に、彼、彼女らの「演技」を観ていた人が、どれだけ居たでしょうか。
あの2人に感動した人のほとんどの理由が、同じ日本人だから、美男美女だから、ではないでしょうか。
だとしたら、判定基準の大部分が、「国籍」や「容姿」で決まってしまう訳で、その大きさと言ったら審判の不正ジャッジがどころの騒ぎでないほど大きく、そもそも視聴者が差別的な判断をしているということになります。
このあたりのことは、今の若い世代の方が、よく解っています。
見た目や生まれなど、本人のどうしようもない要素で、大人は判断しているのを知っているのです。
スケートのジャッジには怒る人が居ても、自分自身のそういう差別に対して怒る人は、皆無だったりします。
このあたりは、自分は面食いなのに、人には容姿以外で判断しろと強要する人に似ています。
おそらく、差別される側になれば、その汚さがよくわかるのです。
学校で大人(先生)が、可愛い子やイケメンばかり見てたらどうでしょう。
そういう人達に注目して、そういう人達に甘かったらどうでしょう。
そういう大人は素晴らしいでしょうか。
そういう大人になりたいでしょうか。
これと社会に対して、大人が行っている行為は、まったく一緒です。
あういう風になりたくない大人に、あっさりなってしまっているのです。
ブラインドテストと言う物があります。
たとえば、ワインなどの産地やブランドのラベルを無くして、全て同じビンに入れて、飲み比べをしたりするものです。
その結果はどうなるかご存知でしょうか。
ほとんどの人が、本当の物とは違う物を選んでしまうのです。
オリンピックだって、そうですよ。
全員、仮面でもつけて、国名を隠して、どうやっても区別がつかないようにして競うことが出来たら、みんな今回のような感動なんてしないのです。
先日、交響曲、広島が当人の作曲じゃないことでニュースになりましたが、ああいう風になるのです。
曲そのものが良いなら、誰が作曲しても関係ないでしょう。
競技そのものを観てるなら、国や容姿は関係ないでしょう。
でも、現実はそうはならない。
現実は、曲そのもの、競技そのもの、そういう「そのもの」ではなく、マスメディアに、影響(マインドコントロール)されやすい人々の良く言えば感動的、悪く言うと国や容姿などの差別的な判断で、大人の社会は決まっているのです。

・乗客に日本人は居ませんでした
・Imagine there's no countries 想像してごらん 国なんて無いんだと
想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...
想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ
