ハシゴから両手を離せ!?

あなたはいまハシゴを上っているとします。
ハシゴを上った先に、あなたが望むものがあります。
その時に、両手を離すとどうなるでしょうか。
はい、そうです。
落ちます。
真っ逆さまに落ちるでしょう。
当然、望むものは手に入りませんし、望むものからも遠くなります。
ですから、
両手を離しましょう♪
バンザーイ♪
\(^o^)/
………。
……。
…。
こう言われて、両手を離す人は居ないでしょう。
ハシゴを上っている最中に、「両手を離せ!」と言われたら、誰だって「ふざけるな!」と思うハズです。
この「ふざけるな!」という感覚を忘れないでください。
これを踏まえて、本題に入ります。


・ハシゴから両手を離せ!?
これから求められる人は、上っている「ハシゴから両手を離さない人」です。
「ハシゴから両手を離す人なんて居ないよ!」と言う人ばかりだと嬉しいのですが、どうでしょうか。
残念ながら、現代では、ちょっと上って、すぐ頂上に着かないと、すぐ両手を離してしまう人が少なからず居ます。
それも、自分で選んだハシゴなのに、です。
今は昔と違って、どのハシゴを上るかは、当人が自由に選択できます。
政治でも、経済でも、芸術でも、料理でも、好きなハシゴを上れば良いのです。
そしてもし、その世界で食べて行こうとするならば、それなりの高さまで上らなければなりません。
どのジャンルを選ぶにせよ、「年」という月日は必要でしょう。
たとえば、大学受験で、ざっと1000(時間)の段階を上ることが必要だとしましょう。
1日に3時間やれば、だいたい1年です。
もし、すぐに結果が欲しかったら、1日に10階段(時間)とかこなせば、100日でクリアできます。
だから、すぐに結果が欲しかったら、大量にやれば良いのです。
ただ、それだけ。
世界中の受験生が立証している真実です。
それなのに、現代では、ちょっとしかやらないで、それでいて実力テストの結果が悪いと絶望して、放り投げる人が後をたちません。
これは、「上っているハシゴから両手を離す」ことに他なりません。
自分の思い込みで上って、自分の思い込みで絶望して、自分の思い込みで手を離すのです。
これって、富士山を私服で上って遭難する人にソックリです。
まともな人からすると、意味がわかりません。
(もし意味がわかっちゃう人は、もう1度、最初から読んで、「ふざけるな!」という感覚を思い出してください。)
こんなの絶望でも何でもありません。
でも、当人は絶望だと思っているのです。
自分の中の思い込みが真実なのです。
こうなると、も~、何でもアリの世界です。
念のため言うと、絶望とは、通常1000(時間)のところを1500(時間)くらいやって、それでもダメだった時の心境を言うのです。
それだったら同じ人間として、なぐさめたい気持ちにもなります。
でも、1000の階段を300段くらい上ったところで放り投げて、「どうせ私は」とか「絶望を気取っている人」を見たならば、そりゃ絶望でも何でもないことが、誰にだって理解できるでしょう。
選り好みや減らず口はいいから、「やれ」と言う話です。
このように、絶望をきどっている人は、きまって「やってない」人です。
他の人がやってるのに、自分はやらずに暇があるから、寝言が言えるのです。
やっている人は、寝言を言っている時間さえ無いのです。
今回の例では、分り易く受験を例に出しましたが、仕事でも、人間関係でも、一緒です。
現代人は、全力を出し尽くして、万策が尽きて、絶望とかじゃないのです。
大してやりもしないのに、絶望を気取るのだけは進んでやるのです。
それが絶望じゃないのは、前述した通り。
1000段の階段を、300段とか、500段とか、たとえ900段上っても、1000段に届かないのは当たり前ですから、絶望できる方がおかしいのです。

あなたが、ハシゴを上っている時に、人から「両手を離せ!」と言われたら、離さないハズです。
なぜなら、望むものが手に入りませんし、真っ逆さまに落ちるからです。
あなたにとってイヤなことはあっても、良いことは1つもありません。
自分で上る時も、その感覚を忘れない。
忘れそうな時は、このブログをもう1回読んでみてください。
きっと大事なことを思い出すでしょう。
この記事が必要な人に届きますように。
(^人^)

