三次会まで盛り上がる | プラクティス

三次会まで盛り上がる

2月20日は、「お茶会 in 東京」で、三次会まで盛り上がりました。

夕食の後に、カフェ(閉店まで)、カフェ(閉店まで)というノンアルコールで、二次会、三次会です。

しかも、話が、金銭欲とか、色情欲とか、メディアがどうこうの話では無く、えらいまともな話なのです。

お酒の力を借りずに、二次会、三次会まで人が集まるって、いまの時代に奇跡的なことだと思うのですが、如何でしょうか。

三次会の会場を探しながら歩いていた時に、これはものすごい幸せなことだな、と、幸せを噛みしめました。

今では、カラオケや、居酒屋でさえ三次会は少なくなりました。ましては週のど真ん中の水曜日です。


それなのに、シラフで、えらいまともな話を喜んで聞く人達が居るのです。


告知しておいて何なのですが、「本当によく来たね」と思うのです。

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今回の男女比は半々で、職業や年齢もバラバラなので、いろいろな話題が飛び交いました。

興味深かったのは、音楽における世界観の構築方法で、現代の歌は、まず曲を作って、それに詩をのせるそうです。対して、演歌のようなリズム、メロディよりも詩が重要なものだと、ます詩を作って、それに曲をつけるそうです。

こういう話は、テーマを限定してしまうと絶対に出てこない話です。テーマを限定せずに、参加者にミュージシャンが居て、楽しく話しているうちに、ポンと出てくることです。

一見、この話は、音楽家だけ知っていれば良い話で、一般人が知ってもそういうもんなんだくらいにしか受け止められないでしょう。

でもそれだと、脳を使えてない(抽象思考ができてない)のです。


たとえば、古典を紐解けば、こういう記述があります。

古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。

昔、天地は未だ分かれず、陰陽も分かれていなかった。
混沌としている状態は鶏の卵のようで、ほのかに芽生えを含んでいた。
その明るく清んだ物はたなびいて天となり、重く濁ったものは固まって地となったが、清んだ物が合わさってむらがるのは易く、重く濁にごった物が固まるのは難しかった。そこで天が先にできあがり、地は後に定まった。そうした後に、神がその中に生まれた。


ご存知の方も多いかと思いますが、これは日本書紀の冒頭です。

これは、まさに抽象空間、脳の世界、情報世界のことを記述しています。

ここで記述されている「天地」を「作詞作曲」、「神」を「歌」と置き換えて観れば、まさにそのことが理解できるでしょう。

その定義の順番を天から定義するか、地から定義するか、という話なのです。


昔、「音(おと)」は未だ分かれず、詩も曲も分かれていなかった。


こう続いて行くのです。

どうですか、がぜん興味深くなってきませんか、日本書紀。

高い視点があれば、あらゆるものが、知的興奮を味わえる最高のエンターテイメントになります。

沢山あるものから、面白いものを探すのではなく、あらゆるものが面白く見えるのです。


具の材料が何であろうとも、料理して美味しくしてしまう料理人のようなものです。


美味しいレストランを探すより、自分がそういう腕を身に着けてしまえば、一生美味しい料理を食べることが出来る。

だったら、食べ歩きをするより、料理の腕を身に着けた方が幸せでしょう。

そしてそれは、料理という物理的なものに限らず、音楽だったり、書き物だったり、デザインといった分野でも、同じことが当てはまるのです。


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