「蛾」と「蝶」 | プラクティス

「蛾」と「蝶」

 「我」を捨てられるか。

 そこに、「蛾」になるか、「蝶」になるかの分かれ道があります。

 「我」を捨てられなければ、「蛾」になります。

 「我」を捨てられれば、「蝶」になります。

 こう聞けば、誰だって『「我」を捨てる』を選ぶでしょうが、「はい、そうですか」と捨てられるほど、ことは簡単ではありません。


 具体的に言いましょう。

 富士フィルムは、フィルム会社であるという自分自身を手放して、デジカメ、化粧品へと変貌を遂げました(どちらもフィルムと関係なく、デジカメに至っては売れれば売れるほどフィルムが売れなくなる)。

 コダックは、フィルムを手放せずに、倒産しました。


 これは他人事なら大したことないでしょう。

 痛みを感じませんから。

 でも、自分ごとだったら、どうでしょう。

 写真が好きで会社に入ったら、化粧品を作らされる。

 これに対応できるか、です。

 あるいは、化粧品が好きで会社に入ったら、デジカメを作らされる、みたいなものです。

 これらは適時、自分に当てはめて考えてみてください。


 いま、多くの人が、過去の自分に固執するか、未来に羽ばたくか、どっちになるかの端境期に来ています。

 そこで、「我」を捨てられれば、「蝶」になります。

 そうでないと、「蛾」になります。


 その見分け方は、簡単です。

 「蝶」は昼に飛び、「蛾」は夜に飛ぶ、です。

 「我」という過去の自分に固執すると、

 まぶしい未来ではなく、暗い過去に行きたがるのです。

 必然的に、夜行性となり、認めてくれないになり、批判したり、嫉妬したり、自分を正当化しようとします。

 今の若者が打たれ弱いのは、「学生時代のままで居たい」という意志表示でしょう。

 自分は弱いままで良いというワガママ。「我」が強いのです。

 その調子で、アメリカや中国へ行って、優しくしてくれと言ったら、子供かとバカにされるだけです。


 一方、「我」を手放せば、「蝶」になります。

 まぶしい未来が待っています。

 必然的に、日中に活動し、認めてほしいになり、是々非々で批評し、賞賛し、「我」がないので自分を正当化しようとせず、みんなと仲良く仕事し、夜は寝ます。


 言うまでもなく、輝かしいのは、サンシャインです。

 夜は、酔えるかもしれませんが、そんなのは朝には醒めるのです。

 ホストやキャバ嬢は、朝日にさらせば、すこぶるダサイのです。

 なので、陽の光をさけるかの様に、暗いところ、狭いところ、酔えるところへ行きます。

 夜行性の「蛾」、そのものです。


 もちろん、当人の勝手ですから自己責任でやってもらって構わないのです。

 が、そういう人ほど、責任をとらないのです。

 まず、30歳も過ぎれば職がなくなります。

 若さを切り売りしてきただけで、大したスキルが無いのですから当然です。

 厚化粧や酒で誤魔化すのにも限界があるのです。

 そんな自分を直視できないから酒やギャンブル、恋に走り、自分を卑下する自分を正当化するというコンプレックスの塊になりがちです。

 「我」が強いので、「蛾」のように扱われます。

 その原因が、自分自身にあると思えないのです。

 当人は鼻づまりで、自分の香水やタバコの匂いを感じないようなものです。

 当人は、臭いと思わなくても、周りは臭いのです。

 
 ちなみに、ここでは、ホストやキャバ嬢と言いましたが、現実には、公務員や高学歴で働いていない人なんかが、自覚がないことが多いです。

 試験の合格も過去。学歴も過去。その過去にしがみついているのです。

 挙句の果てに、公務員は同じことの繰り返しだからやってられないという態度を住民に見せたりします。

 本人は無自覚にやっているのを見てわかるのですが、それじゃ困るのです。

 自分のことより住民のことでしょう公務員だったら。

 これも「我」が強いのです。


 人生、いつでもやり直しは効きます。

 しかし、それは、全てを捨てて、1からやり直す場合に限ります。

 全てを捨てるとは、文字通り全てです。

 部屋の物は、全て処分。 過去の自分もさようなら。

 真っ白なキャンパスになって、はじめて次の絵が描けます。


 これは抽象論ではありません。

 現に、富士フィルムが行ったことです。

 行えなかったコダックは潰れました。


 次は、あなたがどうなるかなのです。


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