終身畦を譲るも一段を失わず | プラクティス

終身畦を譲るも一段を失わず

中国に、こういうことわざがあります。

「終身畔(アゼ)を譲るも、一段(タン)を失わず」

意味は、一生人にゆずり続けても、失うものは少なく、得るものは多いと言うことです。


その昔、「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という言葉がありました。

「急がば回れ」という言葉もありました。

今では、それらは思いっきり死語になってしまいました。


道路では、我先にと車を飛ばし。

地下鉄では、駆け込み乗車をし。

道では、自転車や歩行者が、せわしなく往来しています。


そうすることで、我々は、いったい何を得たのでしょう。


何かプラスになることを得たでしょうか。

たとえば、遅刻しない?

「遅刻しない」は、当たり前のことで、それをやらなければマイナスかもしれませんが、それをやってもプラスではありません。

たとえば、時間短縮?

「時間短縮」は、それ自体には意味がなく、余った時間でプラスのことをしなければ、やはりプラスではありません。

たとえば、急いだお蔭で遅刻しないで済んだ、とか、早く着いたからゲームでもやろう、とかは、たとえ「感情的には嬉しくても」間違った成功体験です。

なぜなら、何も得ていないのに、喜んでいるからです。

こういう間違った成功体験に気が付かずに、それを繰り返すと、どんどん視野が狭くなり、自分のことしか考えられない人間が出来上がります。


そして、物の見事に、大きな「運」や「ツキ」を失うのです。


たとえば、些細なことで喧嘩をするのは、こういう人たち同士だと思いませんか。

急いでいて周りが見えないから、ぶつかる。

急いでいるのにぶつかるから、頭に来る。

相手も似たような状況だから、言い争いになる。

お互いに、自分が時間に余裕をもって行動していないことは棚に上げて、相手を責めます。

後は、水掛け論で、最悪、刃傷沙汰です。


こういう人たちが得た物とは何でしょう?

こういう人たちに「運」や「ツキ」があるでしょうか。


答えは、残念ながら「無い」です。

得る物が無いどころか、失う物は沢山あります。


車で、横入りされたくらいでキレる人は、楽しい時間を失っているのです。

それどころか、同乗者をイヤな気持ちにさせて、不幸を呼び込みます。

ずっとキレたままなら、事故を起こすこともあります。

最悪、命までも失うことがあるでしょう。


いったい何がしたいのでしょう。

割りこまれないことが、そんなに重要なのでしょうか。

1台や2台、前に行ったからと言って、それが何なのでしょう。

それより、楽しく安全に運転する方が、遥かに重要じゃないでしょうか。


あなただったら、どういう人の車に乗りたいですか。


こういう人の車には乗りたくないと思われる人が、「運」の無い人です。

こういう人の車に乗りたいと思われる人が、「運」のある人です。


これは、そっくりそのまま「仕事」や「家庭」にも当てはまります。


親御さんは、こういう大事なことを子供に身を持って教えなければなりません。

口ではなく、身を持って、です。

でないと子供が将来、辛い思いをすることになるからです。

社会は、学歴や技術を持って年収が高けりゃ良いじゃないのです。

そういう風に、自分だけ良ければいい、自分が正しいみたいな価値観を植え付けることで、日本はこんなにもギスギスして、住みづらくなってきているのです。

そして、長い目で見れば、「運」の無い人が長続きすることはありません。

会社でも、家庭でも、友達でも。


なぜなら、「こういう人とは一緒に居たくない」と思われる人なのですから。


だから、こういう人と一緒に居たい人を育てるのです。

こういう人と一緒に居たい人になるのです。

これは、学歴や技術、お金より大切なことです。


こういうことが、世間では、あまりにも低く見られているので、あえて記事にしてみました。


「終身畦を譲るも一段を失わず」
(しゅうしんあぜをゆずるもいったんをうしなわず)


この声が必要な人に届きますように。


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