『花鏡』 「初心不可忘」 世阿弥 | プラクティス

『花鏡』 「初心不可忘」 世阿弥

天才能役者、世阿弥の著『花鏡』より「初心不可忘」の一節。

以下、原文。

「初心不可忘 此句 三ヶ条の口伝在

是非初心不可忘

時々初心不可忘

老後初心不可忘

此三 能々口伝可為」

以下、意訳。

初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。

是非の初心忘るべからず。
(始めたころの良いところ、悪いところ、初心の頃を忘れるな )

時々の初心忘るべからず。
(各段階ごとの初心の芸を忘れるな )

老後の初心忘るべからず。
(円熟の域に入った時の初心を忘れるな )

この三、よくよく口伝すべし。


「仏教」でも発心、最初の決意が大切です。

最初の決心がすなわちゴールであり、「仏教」の場合はそれは涅槃であり、それを目指そうと思った心がスタートでありゴールでもあります。

「戦争と差別のない世界」は、みんながそれを思えば(思ったとたんに)実現するのです。

しかしながら、忘れれば(忘れたとたんに)失われるのです。

恋愛も、両思いになったとたんに実現して、どちらかが思わなくなれば、思わなくなったとたんに失われます。

スタートであり、ゴールであるとはそういうことです。

日本国憲法(第12条)でも、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と定められています。

思うこと、断つことなく思い続けることが重要なのです。

仏教の話や日本国憲法の話は長くなってしまうので、これくらいにして、誰しもが「初心」が重要であるということは、うすうす感づいていると思います。


世阿弥は、能役者として、芸の観点から初心を3つに分類しました。

まずは、一般的に使われている「初心忘れるべからず」です。

これは今では、「初心の頃の気持ちを忘れるな」という風に情緒面ばかり強調されていますが、そもそも論として、能にとっての情緒は「身体で表現するもの」、「相手に見てもらう客観的なもの」であり、であるからこそ、能面といって感情を排した仮面をつけるのであり、そういう観点からすれば、「気持ち」というより「初心の頃の至らなさを忘れるな」という方が本来の意味となるでしょう。

そうなるとこれは大変深い意味を持ちます。

すなわち「以前の欠点を自覚することが後のためになる」ということを言っているからです。


次に、その時々の「初心忘れるべからず」です。

物事には段階があります。小学生の初心もあれば、中学生の初心もあるでしょう。

社会に出れば、役職。結婚すれば、夫婦になったり、親になったり、します。

その時々の初心を忘れてはいけないということです。

1つをクリアしたからといって、全てをクリアできた訳ではないのです。


3つ目は、老後の「初心忘れるべからず」です。

最初の初心、段階の初心を経て、完成の域に達したとしても、それで安心してしまっては、後は退化するだけになってしまいます。
現状維持は緩やかな退化ですから、日々精進することが大切です。

ピアノにしても、ヴァイオリンにしても、一流の域では、1日触れてないと違和感が出て、一週間も触れなければ、取り戻すのに一ヶ月かかるとも言います。

お釈迦様のように、発心(初心)を忘れず、どこまでも、どこまで行っても、絶え間なく歩いていくことが大切なのです。





この記事が「戦争と差別のない世界」の実現に役立ちますように。

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