母は死なないものと思っていました。

市民病院・日赤・労災と市内の大きい病院で

それぞれ別の病名で助からないと

身内の人に連絡をと医師から言われ

そのたびに元気になり退院してきました。

今回もそうだと思っていました。

酸素濃度が低くなって

救急車で市民病院へ

医師から『 肺に水がたまっていて・・・・ 』

母が暴れて吸引できなくて

 私   『 麻酔をかけて吸引してくれませんか 』(ノω・、)

医師 『 94歳の人に麻酔をする麻酔医はこの病院にはいません 』( ̄∩ ̄#

医師 『 あと何年生きろというんですか、94歳ですよ 』(゙ `-´)/

なんて、言われました (ノ_・。)

でも、私は心の中で 『 母親に生きていて欲しいと思う気持ちに年齢なんて関係ないよ~ 』(ノ◇≦。)

って、思っていました。

医師 『 年齢も年齢ですから、身内の方に連絡を・・・ 』

なんて、聞きなれた台詞を聞かされ ・・・・・ ( ´(ェ)`)

 

でも、やはり4日後に退院 ヾ(@°▽°@)ノ

いつもの事と思っていたのですが、

それから、3日後の夜に施設から電話が

施設 『 夜の見回りでお母さんが心肺停止状態で・・・・ 』(ノ゚ο゚)ノ

事前の打ち合わせでは、心肺停止等の事が起こったときは

蘇生措置はとらないと決めていたのですが、

 私 『 蘇生措置をとってください ・・・・ 』(つД`)ノ

施設へ向かう車のなかで、色々な事が頭に浮かびました。

車から電話しました 『 すみません、気持ちが動転して ・・・・ 』

蘇生措置をやめてもらいました。

 

母は、穏やかな顔で眠っていました。

三十年以上母と暮らしてきました
いま、母の事で思い出すのは
私が子供の時のことばかりです。
駅が停車場と呼ばれていた時代
駅通りがまだ石畳で、我が家は宝屋という
お菓子屋を営んでいた頃の事です。

 

祖父も祖母も父もいて母も若く
子供4人家族8人ででにぎやかに
暮らしていた頃

私が熱を出して寝込んだときに
店の棚からこっそり持って来た
桃の缶詰を食べさせてくれた母、
友達とけんかして泣いて帰った
時に頭をなでてくれた母、
小学校へ持っていくお弁当は
いつも海苔が二段に甘いピンクの
そぼろと砂糖がたっぷりすぎる甘い卵焼き弁当
遠足に当時は高級品のバナナを持たせてくれた母
夜中にミシンをガタガタ踏んで洋服を作ってくれた母
雪が吹き付けるガラス戸1枚の寒い店で
炭火のコタツで店番をしながらセーターを編んでくれた母
甘党の子供に煮豆を食べさせたくて
早朝、どんぶりを持って煮豆屋を追いかけていった母
小学校の参観日、綺麗にもよってくる母を
教室の後ろに探したものです。

いろんな母の仕草や母の姿が思い出されます。

ちょっと過保護でちょっと見栄っ張りだけど
がんばりやさんの母は、私の自慢でもありました。

一緒に住むようになっての30年間
実の子供より長く深く母にかかわった。
私のかみさん、

掃除洗濯食事の世話と一生懸命にやってくれました
母に生活の負担がなくなると
子供やお店に時間を取られてやれなかった事を
おお急ぎで取り戻すように
今日は、コーラス、明日はダンス、その後は詩吟や書道と
週に5日はでかけ、毎日楽しい生活をしていました。
母は、『 今が、私の青春よ 』 なんて言っていました。

この時間を作ってくれたかみさんに感謝です。

高齢になり記録がおぼろになる頃には
かみさんは、実の子供でもできないようなことまでしてくれ
母は、かみさんを『 お母さん、お母さんと 』頼りにしていました。

施設にお世話になるようになり
薄れ行く記憶の中で
母が、帰りたい帰りたいと何度も言った家は、
三十年前に私が母のためにちょっと無理して建て替え
施設に入所するまで住んでいた家ではなく、
昔し停車場通りに建っていた今は立て替えられて
無くなた古い家の事でした。

家族や子供のために一生懸命に働いていた家
毎日のような兄弟喧嘩で騒がしかった家
鰯を七輪で焼いて、部屋中煙がもうもうとなり大騒ぎした家
お菓子の問屋さんや富山の薬売りが年に何度か尋ねてくる家
柱が斜めになって隙間風が入る家
年中無休のお店で
毎日が忙しく、母は休む事無く動き回っていたあの家

子供を愛し家族を愛した母
母も、あの頃が一番楽しかったのかもしれません。

きっと、いま願いがかなって

母は、若い姿になって祖父や祖母、父が待っている
停車場どおりのあの古い家に笑顔で帰っていったのだと思います。

 

私もいつか、子供の姿になって母が待っ
あの家に『ただいま』って帰ろうと思っています。

 

それまで母にさようならです。