久々に更新します。これから毎日つけようかな。今日はコンバースについて書きましょう。
自分は古着がわりと好きで、スニーカーだとなんだかんだでコンバースに頼ってしまいます。

最近また一足欲しくなってきたので毎日古着屋まわって探してます。今愛用しているのが80`US dead stockのジャックパーセルです。わりとありふれたタイプのビンテージなので町でもよく見かけるのですが、シルエットがかなりアメリカ臭くて、インナーソールが固めでシルエットも少し細身で、ブルーカラー全開な僕は気に入ってます。

でもそんなこの靴実は昔はコンバースではなかったんですよね。バトミントンプレーヤーのジャックパーセルさんの名前を使っているこの靴ですが、その当時、すなわち30年代はスポルディングが作ってました。んで、権利がB.F.グッドリッジに移って、最終的にコンバースになったのです。

現在ではスポルディング製のジャックは存在しないとまで言われてますので、B.F.グッドリッジ社製のものが一足欲しいな、、なんて思って探してたらあったんです。無くなったらやなのでどことは言いませんけど、ある古着屋においてあったんです。さすがに値段は張りますけど、かーなりかっちょいい・・・今もーれつに迷ってます。

話によると、グッドリッジ製のものはラストが違うそうです。だもんで現行とは大分違う印象を受けました。シルエットが大分細い。。さらに面白いのが、インナーソールになんとあのポスチャーが使われてましたw扁平足の僕には大分ありがたい。書いてたら買いたくなってきたーけど金がない。。。

そうそう、最近暑くなってきたのでTシャツを買いに行ったのですが、やっぱりカレッジものを選んでいる自分がいる。レパが増えないんですよね。ビンテージが好きなので何でもそっち方面で買ってしまうんですが、ゲームシャツとかラグランとかってなかなか良い店に出会えない。誰か教えてください。

国際政治とはいったい何なのでしょうか?というのが今日のアジェンダです。


政治とはそもそもconstitution lawによって定められた一定の手続きの中で行われるもので、わが国であれば民主主義にのっとった憲法によって、本人代理人関係の下国民の代表者による統治がなされています。


政治というものは本質的には人が作り上げた歴史の中での慣習によるもので、そういった意味で集団の色が強いものであるといえます。したがってわが国の政治と中国の内政、ロシアの内政、アメリカの内政、イギリスの内政はすべて異なるといえます。


では、国際政治と呼ぶものはいったい何なのでしょうか。現代民主政治がconstitution lawによって定まるものだとすれば、国際政治においてそれに変わるものは存在しません。この第一段階の定義において、すでに国際政治という言葉の希薄さが見て取れます。


それでは国際法によって裁かれるものという概念定義を持ち出すとしたらどうでしょうか。constitution lawには強制力があります。国家権力の元、超えてはならない法すなわち正義の範囲内において行為することができます。しかし、国際法に強制力はあるでしょうか?国際法とはすなわち条約その他のものを指し、国際法自体が極めて抽象的な概念です。条約その他の集合体と国家の根幹を定めるconstitution law、どちらが優先されるかといえば、法規的には条約が優先されねばならないという取り決めがされていますが、慣習ではconstitution lawが優先されることが多いのが現状です。事実、バーグの国際司法裁判所はお飾りのような役目しか果たせていません。国際法によって定まる国際政治があったとしても空洞化著しいものとなりそうです。


 そもそもconstitution lawとは、歴史の中で法律というルールが設定されることに起因するといえます。つまり、独逸ヒトラー政権にあるような法律の形式的適用を排除するために、正義という概念を導入せざるを得なかった。ある種自然発生的にconstitution lawは産まれました。そこで問題となるのは正義の概念でしょう。日本に住んでいると発想がわきませんが、各国の正義的常識は宗教からきていることが多いのです。イスラム紛争を見れば我々との価値観の違いは顕著でしょう。1つ面白い例を挙げます。聞いた話ですが欧米人人と日本人に犬の絵を描かせると違いが生まれます。全ての人がそうとは限りませんが、欧米人の多くは暖炉の傍で横たわり転寝をする犬を描き、一方の日本人は、家の外のせまい犬小屋に閉じこもる絵を描く。これは宗教的な違いからきているものです。欧米人を基督教国家に限定します。聖書には犬は神の化身であるとあるのです。reflection of godすなわち鏡にgodを映すとdogになることからdogとなずけられたわけです。これは宗教がいかに密接に生活に関わっているかを顕著に示すものでしょう。このようなある種末端的な認識にすらズレが生じているわけであり、ア・ポステリオリな認識に非常に深く関わる宗教の差異は、まさに正義の差異を見せ付けるものでありえましょう。

 したがって、各国には前提となる正義の認識にズレがある。とすると、国際社会において、各々の認識の中で、共通の道しるべを打診するにあたり交わされる論理構成は極めて絶対的なものであり、一般性を欠くこと著しいといわざるを得ないのかもしれません。


 1つ、国際機関の働きぶりについてみてみましょう。アルゼンチンでデフォルトが起こった当時、国際通貨基金IMFは何をしたか。IMFは基本的にグローバリゼーションを推し進めようというスタンスで、各国の為替市場に介入していくものです。しかし彼らが採用するのはいわゆる古典派経済学、究極の放任経済です。そのため、政府を小さくすることを各国に薦め、介入時には、景気過熱時に放任し、景気縮小、減退期に重税をかけるという、経済学界のスタンダードとま逆をゆく順循環投資というものです。これが何を意味するのか、誰の目にも明らかなのはデフレを引き起こすという事実のみです。当然アルゼンチンは強力なデフレを引き起こし、崩壊しました。


 ではなぜこのようなことになったか?やはり国際機関という存在が極めて流動性の強い、無形の偶像でしかありえないということに起因すると私は思います。具体的には、彼らの内部統治は極めて不鮮明であり、国際社会が民主主義を目指す中、何を思ってか民主主義を行っていない機関として存在しているのです。もちろんのこと日本の影響力は薄く、事実としてある米国による拒否権の独占は、国際機関を歌いながら米国の従属機関としての地位をゆるぎないものにする決定的なツールでもあります。これはほぼ全ての国際機関に言えることであり、国連をはじめとする全ての国際機関は、各国国民から遠く離れたアンドロメダ星雲のような場所に位置しています。情報はなかなか入らない。本人代理人モデルで考えた場合、我々に対するアカウンタビリティは発生すると考えてもおかしくはないのではないでしょうか?各国は機関に人員を送り込むことをステータスと考えるためにここにもある種根源的な人間の欲望が働き、代表者を決める決定的に重要な部分に民主的統制が働いていない。普段三権分立と各権への民主的統制を憲法で明示しておき、一方で国際法規に対して憲法は優位するなどと言っておきながら、世界における日本の位置を明確化するという意味も含む国際機関の人員選任という、我々にとっても利害関係を有するといっても過言ではないプロセスの中で民主主義を、ある種恣意的に、働かせていない状況は肯定できるのでしょうか?


 カンボジアの現地民達が悲惨である、世界の格差社会を是正しなければならない、といったような貧困に対する国際的な流れはもちろん肯定できるものではありますが、このままの状態で国際機関を放置することはシュードラがバラモンにたてつくようなもので、格差社会は是正されないでしょう。彼ら国際機関を取り仕切る人達は非常に頭脳明晰であり、結局は彼らの利益に結びつくようになっているとは思えないでしょうか?ナチス独逸は内閣が法を自ら生み出す側にたつことで、統制の利かない絶対的な機関として好き放題にやってきました。今非統制機関として国際機関が存続することは、格差社会に先立つ重要な問題へと昇華する可能性を秘めているものと思います。逆に言えば、国際機関に民主的統制が及んでいくことになれば、新たなレヴェルでの民主主義が開け、ここに国際政治が誕生するようにも思います。

基本的にこのブログでは考えていることをだらだらと述べてみることにします。あまり面白みのあるものではないかもしれませんが見てくださる方がいるならばありがとうございます。


初回ということで少し観念的なアジェンダを設定してみます。近頃、場所・人を問わずロジカルシンキング・クリティカルシンキングといったことが騒がれているのは周知のことでしょう。これに関する書籍を読みましたが、論理展開の過程を、一定のレベルでシステム化して、道を作る技術を提供しているといった印象を受けます。私はこれを批判しているのではなく、むしろ肯定的にとらえていますが、著者の方々が真に意味するところは分かりきれていないように思います。そこで、これに関する疑問について少し書き連ねてみます。


・そもそも論理とは何か?

・批判的に読み解く、懐疑的に読み解くとはどういうことか?

・ア=プリオリな展開に潜む落とし穴


大きくはこの三つになります。以下に感じるところを書いていきます。


論理とは、そもそもどういうことなのでしょうか。まず、「命題X」に対して「回答」が5つしかないとき、それぞれの結果にいたる論理展開は何通りあるのか?とでもしてみましょう。5通りでないことは直感的に判断できるかと思います。

この仮定に対して考え付く疑問は、まず「命題」と「回答」の関係でしょう。時系列的にたどった時、どちらを出発点としているのか、「回答」というのはその時一点に関するものなのか、未来に進んでいく可能性を「回答」は含んでいるのかといったところです。例えば、皆さんは窓の外を見て、その状態をどうとらえますか?まさにそれは現在ですが、現在とは歴史の作り上げた「結果」なのか、先に進む可能性をもつ「前提」なのか。私はどちらかといえば前者を想像します。しかし、「命題X」にかかる制限は「回答」の数のみであり、内容そのものは無限的です。これは「命題X」と「回答」が双方向的である可能性もあるということであり、時系列という概念自体成立しない可能性すらあるわけです。売上高を増やすために広告費を増やした、売上高が増えて予算が増えたから広告費を増やせた、といった具合です。前例の場合、「命題X」は「売上上昇」で、「回答」は「広告費増加」であると仮定できます。極めて抽象度の高い設定となり、命題が回答を招いているという一方通行的な発想は望まれません。なるほど「命題X」「回答」のそれぞれが抽象的であればあるほど論理展開は増えていくということになりそうです。

さらに議論をさかのぼると、論理とは命題と回答の中間にしか存在しないのでしょうか?といったところで「論理」とは何かについて考えてみます。通常論理とは、前提となる必要条件の中から絶対条件を導き出す際に使われるものといった認識を私はしています。しかしもちろんその場面においてのみ使われるものではなく、単純な因果関係の中にも論理は存在するし、複数の事象が3次元的に結びつく中でのベクトルの異なる論理の複合といったことも現実に存在します。それでは、その前提・原因・事象が存在するにいたる論理展開は共通か?ということです。ここで、それらの存在を認識するのは人間であり、その認識方法はア=プリオリでもあり、ア=ポステリオリでもある。直感とはいかにして形成されていくのか、は研究者の方にお伺いしたいところですが、少なくともア=ポステリオリな判断はそれぞれ経験することが違う以上、異なる認識となる可能性を持っています。つまり前提にズレがあることも考えられます。とすると命題の設定者がとるべき行動は、その命題にいたる論理を皆が共有するために、説明することにあります。そこには極めて一般化された事象から命題にいたる過程を論理として線をつないでいくことが必要であり、その結果回答にいたることが出来るのです。とすると究極的に論理とは、周知の事象から回答にいたる流れの全てを指すものといえそうです。普段これを省略して説明していると考えられます。但しこれは1つの論理があるところ、それに対する認識を述べたまでで、私は論理とは純然たる事実の集合として常に存在しているものと考えています。すなわち、究極的に一般化された事象を中心として放射的に論理は広がっており、そこにあるのは全て事実で、想像が作り出すものではないということです。我々はその中から1つの線を模索して抽出しているわけであり、ファクトベースの話に収束せざるを得ないのではないでしょうか。いかに美しい一筆書きが出来るか、といったところです。

これはあくまで私見ですし、私の文章自体極めて論理的でないですが、考えるところです。抽象的で書きにくかったので、次はもう少しリアルな題を設定してみます。一問目にしか答えていませんが、とりあえず今日はこんなところで。。。