(このブログ記事を、わたしよりも先に旅立って行ってしまった友人のN君に捧げます。📖✏️)


悲しい😢知らせは、いつも決まって突然にやって来ます。🙏❔❓️


だから心構えも何も出来ていない状態で、ボディーブローを喰らうように、心の奥深くのヒダを鷲掴みにされたみたいで、悲しみの心痛がいつまでも癒えることなく残ります。💔


彼の訃報を受けたのも、思わぬ状況下でのことでした。❕❔


彼とは幼稚園の年少組のときから、小学校・中学校と地元の学校でずっと一緒で、高校はそれぞれ隣町にあった別々の学校に進みましたが、

毎朝登校の電車で顔を合わせると、会話を交わす間柄でした。🐤


やがて彼は学校を出ると、町の消防本部の吏員として勤めるようになり、わたしも遅れて地元にある今の会社に就職をすることになりました。


彼は、警防や予防(課)の職務上、地元の会社や商業施設に検査のために立ち入り、わたしも行政機関への対応業務を任としていた関係上、そんな彼とはよく相対して顔を合わせることになりました。❕❔


そして、

(顔を合わせると、いつもヒソヒソと近況を語り会ったり、指導が入りそうな内容をそっと事前に耳打ちして教えて貰ったものです❔🤗)


そんなこんなで・・・、

会社に入ってからは三十数年、学校時代からの付き合いを加えれば五十年以上、既に腐れ縁と云っても良いほどの仲でもありましたが、


そんな彼の悲報を聞いたのは・・・、


先月(9月)の末に、わたしの暮らす地方を夜半の雷雨が襲いました。🌩️⚡️


ほんの短い間(1~2時間程度)のことでしたが、後から知った話しでは、町のあちこちで落雷⚡️による被害があった模様です。


わたしの勤める会社でも、消防設備(自動火災報知設備の受信機)に誘導雷のサージ障害が発生し、機器トラブルを起こしてしまいました。❕❔


そして、機器の修理のために・・・、


数日間の建物の〝未警戒〟期間が発生してしまう旨を消防に相談に出向くと、丁度窓口対応をしてくれたのが、やはり小学生時代の同級生のT君でした。


彼はわたしが、本題の相談事を話し出す前に・・・、いきなり、N君が亡くなったことを知らせて来たのです。


(エッ❔エッッ、エ❕❕)

その時わたしが受けたショックは、到底言葉には言い表せるものではありませんでした。


N君は、丁度5年前わたしが骨髄腫の治療のために自家移植や余後の処置を受けていたころに、時期を同じくして、心筋梗塞の発作を起こしてペースメーカーの装着をするための入院をしていたことを、後に彼からわたしは聞いて知りました。🐤


そしてその時に、

多分近いうちに仕事も退くんだと云う話しも聞いてはいたのですが・・・、


わたしも、それ以来彼には会って下りませんでした。


同級生の話しでは、N君は仕事を辞めた直後に、肺に腫瘍が見つかり、それからずっと闘病生活を続けていた模様です。


最期は、緩和施設で家族に見守られながら亡くなったそうですが・・・、葬儀は娘さんの意向(父親の変わり果てた姿を見られたくないと云う思い)で、親族だけで営まれたそうです。🙏


T君は、ひととおり語り終わると・・・、


ポツリと一言「早いよな❕❔」と囁きました。🐤


そして、

無言で同級生の話しを聞くわたしの傍らでは、空気清浄機の乾いた稼働音だけが、虚しく響き渡っていました。


その後わたしは、

相談事もそこそこに、茫然自失の状態で帰社するための🚙車に乗り込むと、カーラジオからはオフコースの『秋の気配』が流れて来ていました。🎶


いつにも増して、小田さんの歌声が寂しく感じられたのは、積年の想い出と自分ではなく彼だったと云う不条理な感情が、複雑に絡み合った状態で、〝僕があなたから離れてゆく〟と云う歌詞のフレーズに感化されてしまったようでした。❔❓️



秋の気配            オフコース


あれがあなたの好きな場所

港の見下ろせる小高い公園


あなたの声が小さくなる

僕は黙って外を見てる


目を閉じて息をとめて

さかのぼるほんのひととき


こんなことは今までなかった

僕があなたから離れてゆく

僕があなたから離れてゆく


たそがれは風を止めて

ちぎれた雲☁️はまたひとつになる


あの歌だけは他の誰にも

歌わないでねただそれだけ


大いなる河のように

時は流れ戻るすべもない


こんなことは今までなかった

別れの言葉を探している

別れの言葉を探している


ああ嘘でもいいから微笑むふりをして


僕のせいいっぱいのやさしさを

あなたは受け止めるはずもない


こんなことは今までなかった

僕があなたから離れてゆく


こんなことは今までなかった

僕があなたから離れてゆく


                            作詞・作曲:小田和正

 

 

多発性骨髄腫の宣告を受けて、もうすぐ6年が経とうとしています。🙏


病気の発症を告げられたときには、6年後の今の自分の姿など、絶対に想像も付かない状態でした。🐤❔❓️


その時はただ、

とにかく示された治療に臨み、結果は二の次で

為るようにしかならないと、


病気を受け入れて、決してメゲズに前を向いて進んで行こうと、自分自身に言い聞かせて下りました。🐤


そして、

お陰様で、治療(維持療法60クール目)は今日まで良好な方向に展張しておりますので、感謝しかありません・・・が、❕❔


そんな病み人を他所に、先に旅立って行ってしまう人たちに、わたしは何と言葉を掛けて送り出せばよいのでしょうか❔❓️


いつも悩んでしまいます。


そしてまた、

残された家族や知り合いとの接触も、とても難しいものがあります。🙏


実は、N君の奥さんも幼稚園時代からの幼なじみ(同級生)でした。


今度会ったら、何て言葉を掛ければよいか実現する前に悩んでいる自分が居ます。❔❓️



だけど、供花を持って挨拶に伺おうと考えている自分も下ります。🙏


さてさて、


でわ。🐤