ドラゴン日記

ドラゴン日記

「ちいきを愉しむ ちいきを旅する」をメインテーマに思いつくことをあれこれ書いています

Amebaでブログを始めよう!

 「私の一番好きなもの この街であなたと過ごす時間

大好きな場所がたくさんある街 緑がいっぱいある街 

優しい人たちに囲まれて これからもハッピーでいられたらいいな」

 

 こんな歌詞ではじまるChildfoodの「私の好きな街」。 山梨で開催された国民文化祭でグランプリを受賞した曲です。 巣ごもり中、娘に教えてもらい好きになりました。

 娘は小学生のころ合唱で歌い、いまでも大好きだと。

 共通の友人に紹介してもらってお会いし、その人柄に触れ、さらにファンになりました。

 

 「あなたはこの街で一番好きな場所はどこ?

私は優しい人たちがいるこの街が好き!

だから大切にしたい この場所で過ごす時間」 こんな歌詞に元気を頂きました。

 

 コロナですっかり元気を失ってしまった甲府の街。

 マスク購入券を配るより、この曲のCDを配った方がずっと元気になれる。

 

  「For Yo For Me」 自分のために、みんなのために、そしてこの街のために

https://youtu.be/oyYnXBYIKe0

 今ではEUに輸出されるまでに発展した山梨のワイン産業ですが、明治4年に広庭町(甲府市武田2丁目あたり)にあった「大翁院」の住職・山田宥教が副業として製造したのがその始まりです。
(1858年横浜港が開港し、外国人居留区が作られましたが、山田はたびたび横浜に足を運び、ここでワインやビールなどの洋酒にふれ、その醸造を志したものと考えられます。)

 その後、明治七7年には八日町(城東通の中央2丁目バス停あたり)にあった「詫間酒造」において山田宥教と詫間憲久が醸造したワインが販売されました。山梨日日新聞の記者が購入しその記事も現存しています。
  「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」  江戸時代においても、徳川家の直轄地として文化の香り高かった甲府の街は、明治になってもとてもハイカラな街だったことが想像され、思わず笑みが浮かびます。

出典:仲田道弘著「日本ワイン誕生考」(2018年、山梨日日新聞社)


 

 明治6年に山梨県に赴任してワイン産業の立ち上げに大きく尽力した県令「藤村紫朗」。その指導のもと、明治10年に「県立葡萄醸造場」が甲府城内に建設されました。山田宥教と宅間憲久の民間人二人により始まった日本のワイン造りは、これにより「官」の手に引き継がれることになりました。
  明治2年からアメリカで8年間ワイン造りを学んだ「大藤松五郎」、さらに明治8年から11年までドイツにワイン留学した「桂二郎」(桂太郎の実弟)らが運営にあたることとなります。当時の醸造場の写真は県立図書館に収蔵され、現地には井戸のみが現存しています。
 また藤村が推進した洋風の建築物は「藤村式建築」と呼ばれ、明治9年に甲府を訪れたイギリスの外交官アーネストサトウが、「街の規模からすれば私の知る限り日本一だ」と評したと言われ、たいへん価値が高いです。
  藤村は次の赴任先である愛媛県に、お抱えの「大工」を連れて行きました。「道後温泉」の建物と甲府に残る藤村建築が似ているのはそのためです。


 出典:仲田道弘著「日本ワイン誕生考」(2018年、山梨日日新聞社)



甲府駅北口よっちゃばれ広場にある「藤村記念館」