相馬野馬追2017 | とむりん Logbook

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今年も福島県南相馬市で行われる伝統行事「相馬野馬追」に行ってきました。

相馬野馬追は、1323年からこの地を治めてきた相馬氏が行ってきた伝統行事です。その発祥は相馬市の祖とされる平将門が下総国(今の千葉県)で始めたものとされ、時代によって形は変わったものの、1100年近くの歴史を持つ行事です。

往路は東京から夜行バスで仙台、そこから常磐線で野馬追の行われる福島県南相馬市・原ノ町駅へ。

昨年までは津波の影響で途中にバス代行区間があったのですが、今年からは原ノ町まで列車で行けるようになりました。
明らかに新しいレールも敷かれていて、ここでは復興が進んでいるようです。

 

「相馬野馬追」は毎年、7月最終の土・日・月に行われています。
私が見たのは日曜日の「本祭り」。呼び物の「お行列」「甲冑競馬」「神旗争奪戦」が行われます。

「お行列」とは、野馬追に参加する騎馬武者たちが集合地から会場に向けて一般道を練り歩くものです。

こちらは「先頭御先乗」。颯爽とした勇姿でした。

「相馬野馬追」は侍の祭りではありますが、女性でも20歳以下・未婚であれば参加を認められており、子供でも参加できます。こんなかわいい少女武者もいました。

 

 

堂々とした侍たちの進軍が続きます。

 

 

時々、行列の中を伝令の武者が行き交うことがあります。
口上を伝える伝令です。

 

途中、行列が止まることもあります。
そういう時の馬の制御は難しいのですが、見事な乗りこなしです。

 

「お行列」をはじめとする野馬追の行事は、相馬中村藩時代の行政区分「郷」(ゴウ)ごとに編成されています。

こちらは5つある「郷」のうち、標葉郷(シネハゴウ)の騎馬武者たち。

今の双葉郡にあたります。

原発事故のため現在も避難指示が解除されていない地区もあり、避難先から参加している騎馬武者も多数います。

 

標葉郷の騎馬武者が続きます。

ちょっとわかりにくいですが、後ろの黒地に青い十字の紋所をつけた旗差物の武者、この後大活躍する標葉郷・吉田武者です。

 

 

轡を並べて前方に疾走する武者たち。

 

「お行列」も終盤。写真左側、黒地日の丸の旗の旗の後方にいらっしゃるのが今回の総大将・相馬行胤(ミチタネ)公です。
相馬家第33代当主は相馬和胤(カズタネ)公ですが、ご高齢のため、ご長男の行胤公かご次男の陽胤(キヨタネ)公が総大将を務めることが多くなっています。

 

「お行列」のしんがり。

ここから「雲雀ヶ原祭場地」に場所を移して、呼び物の行事が続きます。

 

 

「雲雀ヶ原祭場地」で最初に行われるのが、「相馬流山」踊りの披露。

「流山」とは現在の千葉県流山のことで、相馬氏が鎌倉時代に奥州に移る以前から続く舞踊です。

 

甲冑競馬の様子。

今年は一回の頭数が多いレースが目立ちました。

 

同じく甲冑競馬。2位を大きく引き離しているのは標葉郷・吉田武者。

吉田武者はこの後の神旗争奪戦でも御神旗を獲得、大活躍の一日でした。

 

こんな競り合いも甲冑競馬の醍醐味です。

 

 

引き続いて行われた「神旗争奪戦」の模様です。

花火を使って上空約150mに打ち上げられた「御神旗」が落ちてくるところを騎馬武者たちが取り合うという競技で、落下点を見極めて馬を走らせ、他の武者を制して片手で「御神旗」を取らなければならないため、馬を操る総合的な技術が求められます。「御神旗」獲得は大変な名誉とされています。

 

「神旗争奪戦」が終わると「本祭り」の行事は終了です。

 

勇壮な「相馬野馬追」ですが、1100年近くの歴史の中で、何度も存続の危機に瀕してきました。

特に2011年の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故では、地域の存続自体が危ぶまれました。

震災の年には「雲雀ヶ原祭場地」も避難区域に指定されて使用できなくなったいました。

しかしそれでも、2011年には規模を縮小したものの野馬追自体は挙行され、翌2012年からは元の規模で行われるようになりました。

以来毎年、国内外から多くの観光客を集め、盛大に挙行されています。

 

もともとは武士たちの軍事訓練として始まった野馬追。その意味合いは明治維新までずっと続いてきましたが、江戸時代、幕府との関係から「神事」として行われるようになり、次第に地域の平穏と発展を祈るという意味合いが強まってきたとされています。

そして東日本大震災以後は、地震と津波だけでなく原発事故によっても甚大な被害を被ったこの地域の復興の象徴としての意味も込められるようになりました。

復興の前途にはまだ困難が多いのですが、それだけに「相馬野馬追」の果たす役割は大きいといえます。

 

「相馬野馬追」から東京への帰途、原発事故による帰還困難区域を通ってきました。

それについては次の記事でご報告します。