雑草軍団からラグビー日本一を目指し続けた軌跡 連載開始 | ラグビーを楽しもう!  

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本日から全編の連載を始めようと思います。不定期になりますが。感想などお寄せいただけますと有難いです。 

ご愛読よろしくお願いいたします!

 

『雑草軍団からラグビー日本一を目指し続けた軌跡』

 

第一部~ 雑草軍団 

本郷高校ラグビー部

 

 時は今から 39 年前の昭和 54 年(1979 年)、私の人生を大きく変えた運命の出会いがあった。この話は、その出会いから、ラグビー日本一を目指して歩んだ 14 年間の記録である。        

 

私は、練馬区の公立校、開進第 4 中学校に通っていた。この学校は当時軟式野球部が非常に強く、過去 2 回の全国制覇を達成した事のある公立中学であったが、私はその中で剣道部に所属。剣道部を練馬区で初の優勝に導き、個人では武道館の全国中学校錬成大会でベスト 16 に入った東京チャンピオンで、練馬区にある古豪東松館道場で、部活以外にも日々精進していた、ちょっとした少年剣士であった。

 

本郷高校に入学したのは、昭和 54 4 月(1979 年)の事であった。巷では、インベーダーゲームの大流行、自動車電話サービスの開始、ドラえもんが放送開始した年である。私は高校受験に失敗し、大学の付属高校、第一志望であった都立校に相次いで不合格。合格したのが本郷高校だけだった。受験に失敗した事もあって、私自身の高校生活は決して明るいスタートでは無かった。

 

高校に入学すると、既に私の実績が剣道部に伝わって居て、すぐに勧誘を受けることになる。元々部活はやるつもりであったので、剣道部にはすぐに入部するのだが、入ってすぐに後悔する事に。今でこそ、本郷の剣道部はかなり頑張っていると耳にしたことがあるが、当時の剣道部はひどく弱い集団だった。2年生、3年生で私に敵う相手が一人も居ないのだ。私は、団体戦では常に大将を任せられたが、団体戦で私の所まで 2 勝以上で回って来た事は皆無であった。唯一活躍できたのは個人戦。豊島区の高校剣道大会で、1 年生ながら優勝を飾る事ができた。これが高校時代の剣道部での唯一の勲章である。

 

【運命の出会い】

そんな悶々とした高校生活を送っていたのだが、唯一の楽しみがあった。幼少期から音楽(ピアノ)に親しんでいた事もあり、中学時代に音楽素人の友達を誘ってバンドを結成。そのバンド仲間と週末には自宅で練習し、3 月に御茶ノ水にある楽器店のホールで、単独ライブを行う事を目標に頑張っていた。洋楽ではディープ・パープル、サンタナ、邦楽ではツイストとか、プリズム、日野皓正など幅広く演奏する楽しいバンドだった。高校から加わったメンバーの中に、3 人のクラスメートも居た。現在プロのトランペット奏者である、吹奏楽部の藤井陽一。大手部品メーカーで活躍する、陸上部のキーボード奏者遠矢工。そして、卒業後『遥かなるニューヨーク』で潮賞を小説部門で受賞した、リードギターの橋本康司郎の 3 名である。

 

2 学期のある日曜日に剣道部の練習で、いつものように銀杏並木をジャージ姿で歩いて部室に向かおうとしていた時、右前方にある体育教官室から、担任の西川路先生が叫んでいる。

 

『おーい本木 ちょっと教官室に来て!』

 

なんだろうと思いながら行ってみると、そこには陸上部顧問の西川路先生と、あの強面の大浦先生が座っていた。

 

西川路先生『大浦先生、こいつがうちのクラスの本木です。足はクラスで一番早いです。』

 

大浦先生 『いや~、今窓から校門の方を見ていたら、おまえさんが入って来てな、西川路先生に、あの大学生は誰だ?と聞いたのだよ。そうしたら、内のクラスの本木ですよ。 と言うじゃないか。それで、呼んでもらったのだ。』

 

私 『はい……

 

大浦先生 『単刀直入に言うと、おまえラグビー部に入らないか?』

 

私 『え?ラグビー部ですか?自分は今剣道部に所属していますので、無理です。』

 

大浦先生『剣道部の顧問には俺からきちんと話すから、心配するな。お前がもし来てくれたら、本郷高校ラグビー部も全国の花園大会に間違いなく行ける!』

 

この全国の二文字が、当時悶々としていた私の心に響いた。だが、ラグビー部の練習は並みじゃないと聞いていたし、もし今入ったら、単独ライブに向けての練習が出来なくなってしまう。私はバンドマスターだったので、いまこの段階で脱落する事は、他の仲間を裏切る事になるので無理だった。

 

私 『ちょっと考えさせて下さい。』

 

として、親とも相談したいと、その場での回答は避け、持ち帰らせてもらう事にした。

しかし、この時の全国の舞台に行けると言う、恐らく大浦先生のなんの根拠も無い勘だけの言葉に誘われ、信じてやってみようという気になった。単独ライブの日程が

3 20 日だったので、4 1 日からの入部で良ければという条件で、入部する事になった。これがラグビーとの出会い、いや、私の人生を変えた大浦先生との出会い

だった。

 

つづく

 

 

 

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