裸体美人の画家 萬鉄五郎 | あおきゅーのぶらぶらアートさんぽ。

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東京近郊の展覧会や美術館のこと、美術館を巡る旅について、本音でゆる~く書きます。


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今回の気になる画家を掘り下げるぞ!は、東京国立近代美術館の常設展示室などで見る度に気になっていた画家、萬鉄五郎です。

 
“まんてつ ごろう”ではなく、“よろず てつごろう”と読みます。
 
 
 
萬鉄五郎は1885年岩手県の現在の花巻市にあたる場所に九人兄弟の長男として生まれます。
 
幼少期より水墨画を描き、16才の時からは手引書を元に独学で水彩画を描く様になります。
18才の時に上京、早稲田中学校の3年次に編入学。
 
中学卒業後はアメリカのバークレーに短期留学。
 
 帰国後に東京美術学校(現在の藝大)の西洋画科予備科に入学。
その卒業制作で萬鉄五郎は衝撃的な作品を発表します。
 
それがこちらの《裸体美人》
 

萬鉄五郎 《裸体美人》 (重要文化財) 明治45年(1912) 東京国立近代美術館蔵

 
現在は東京国立近代美術館に所蔵されており、国の重要文化財に指定されています。
 
発表から100年以上経った現代においても存在感の際立つ作品です。
 
《裸体美人》と名付けられた作品ではありますが、描かれた女性はワキ毛ボーン。
しかも平面的で補色の緑と赤の強烈な対比。
 
そして何より、ブス。
 
これは当時の日本画壇の重要人物で藝大の教授も勤めた黒田清輝が主導した、外光派の表現とはあまりにかけ離れたものでした。
 
萬鉄五郎が目指したのは当時ヨーロッパで評価が高まりつつあったゴッホらの後期印象派や、
アンリ・マティスらのフォーヴィスムを意識したものでした。
 
まだまだ閉鎖的な日本画壇にヨーロッパの新たな流れを引き入れた人物の一人が萬鉄五郎なんです。
 
ちなみに《裸体美人》の前年の1911年に描いた自画像は筆触分割による明るい画面の印象派風
 
萬鉄五郎 《点描風の自画像》 明治44年(1911)頃 岩手県立美術館蔵
 
《裸体美人》とほぼ同時期に描かれた自画像はやはりフォーヴィスム風。
 
萬鉄五郎 《雲のある自画像》 明治45~大正2年(1912-13)頃 岩手県立美術館蔵

(↑暗いわ。)

 

 同時期に描かれたムスッとしたオバサンもやはりフォーヴィスムやゴッホの影響が見て取れます↓

 

萬鉄五郎 《女の顔(ボアの女)》 明治45・大正元年(1912) 岩手県立美術館

 

 そして、何故か暗がりにデカデカと『仁丹』と書かれたこちらの作品は厚塗りのゴッホ風↓

 

萬鉄五郎 《仁丹とガス灯》 明治45・大正元年(1912)頃 岩手県立美術館蔵

 

 そしてその翌年に描かれた自画像はキュビスム風
 
萬鐵五郎 《赤い目の自画像》 大正2年(1913)頃 岩手県立美術館蔵

 

同年、1913年に描かれた和装のオバサンもキュビスム風↓

 

萬鉄五郎 《風船をもつ女》 大正2年(1913)頃 岩手県立美術館蔵

 

そう、一人で勝手に近代西洋美術史を繰り広げているのです。

 

欧米被れのミーハーと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、

まだ日本ではほとんど評価されていない西洋の最新の表現の作品を次々と残していったのです。

 

 

 

そんな萬鉄五郎ですが、その後神経衰弱と結核の療養の為、神奈川県の茅ヶ崎に転居。

 

(↑どんなシチュエーションだよ。)

 

 温暖でのんびりとした茅ヶ崎の地で、その表現も西洋の流れに遅れまいとするものから変容していきます。

 
 1919年に描かれたこちらの作品はゆる~い南画風
 
萬鉄五郎 《日の出》大正8年(1919)年頃 萬鉄五郎記念美術館蔵

 

 萬鉄五郎は晩年になると水彩画も多く手掛けていますが、同時に油彩画においてもその個性を十二分に発揮しています。

 

 こちらは亡くなる三年前に描いた《宙腰の人》とい作品ですが、

 

萬鉄五郎《宙腰の人》 1924(大正13)年頃 油彩、カンヴァス

 

相変わらずヘンテコな絵を描く人です。

 

 

 

そんな萬鉄五郎ですが、1927年、結核により41才の若さで亡くなります。

 

人生の最期まで新しい絵画の表現を追求し続け、ちょっと、と言うかかなりヘンテコな絵を描き続けた画家、萬鉄五郎。

 

愛さずにはいられない画家の一人です。

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