ビザ切れに「気づかず」パリ不法滞在で起訴された前衛美術作家・桜井孝身。裁判パフォーマンスという形で文化人らの支援を組織し、無罪を勝ち取った。だが、この大部の報告書は「勝利」について、ほとんど記述はない。ただ、支援者らの熱い激励文など経過を追いかける資料を緻密に編集。読む者には「経過」こそ事の本質であるかのように映る。

 そう、孝身にとって自身の芸術にかかわることだけでなく、すべては今の瞬間こそが真実。時を刻む時間・経過こそが問題なのであり、終わり「Fin」は実在しないのだ。動的人間とでもいおうか、作品も、もしかすると完成品はないのでは、と疑念がわく。すべては動いている。平面であれ立体であれ、支持体や絵の具の劣化こそが生の証であり、孝身美術の神髄ともとれる。

 あえて勝敗に触れるとすると、決して彼の勝利ではない。芸術の都パリの勝利なのである。彼はそう認識したのではないか。 それは彼の計算ずくの技なのであろう。

 孝身の美は、性急に評価を求めない。見る者に深い鑑賞を促す。その上で、解釈を求め、自作に新しい価値を付加しようとする。そんな企みを彼の作品に思う。

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 さて「九州派」についてである。この書には第2章として「九州派神話がはじめて実態を表し、当時の実物と記録で語る原型の、九州派風景物語」が続いている。九州派のイントロダクション、創設者本人による告白など貴重な資料集である。

 1957(昭和32)年9月1日発行の機関誌「九州派」第1号を掲載。宣言が表紙を飾っている。それは「われわれの、もっとも基本的な態度は、あらゆる既成の観念を排して、最大限に、美術の可能性を探究することである。」などと唱っている。裏表紙には全会員20人が名を連ねている。

 長頼子、石橋光子、石橋泰幸、川上省三、菊旗(ママ)茂久馬、木下新、黒木耀治、俣野衛、尾花成春、小野充子、オチ・オサム、大神繁子、尾張猛、桜井孝身、讃井康、菅原陽子、磨墨静量、徳田淳子、八柄雄高、山内重太郎ーー。

「秋には街頭展、来年はグループ展を東京に持って行く予定。アバンガルドとしてのわれわれの活動も、漸く端緒についたようである」と詩人の編集者・俣野が記す。この会員名と俣野の後書を奇妙に感じる人も多いのではないか。当初の会員は美術家に限らず詩人や記録作家、アドマンたちが集っており「前衛美術家集団」ではなく「前衛芸術家集団」がふさわしい。

 孝身の渾身の記録「九州派の起源 オチ・オサムについて」が、この章のすべてといっていい。全14ページ、約2万3千328文字、400字詰め原稿用紙にして約60枚の力作である。田舎者と都会人の奇妙な出会いから始まり、九州派旗揚げの街頭展準備、サンフランシスコ行など、二人の熱い美術を巡る体当たりの競い合いが綴られている。

 「九州派はアスファルトがすべて」などと評されることが多い。素材としてアスファルトを初めて使用した団体。その発案者がオチ・オサムだった。製版の仕事に就いていたオチの〝強い画面作り〟の一策だったのだが、当時の福岡市天神の県庁舎の柵を使った街頭展では同人たち皆がアスファルトをベタベタと塗りたくったのである。

「九州派を設立した翌年からは、コールタール、アスファルト、砂、紙といったオンボロ材料に急変、雨が降ろうが風が吹こうが、作品が崩れようが、少々のことには驚かない作品に変化し、それが九州派の特長ともなった」と綴る。当然のように全国の前衛作家や評論家たちの注目するところとなり、アスファルトは、わが国前衛美術界への最大の貢献といえようか。

 そしてオチに「九州派の起源」と飾りを伏した孝身。「私は長い間、一個の怪物を理解しようとした。そして30年の歳月をかけて理解を断念したとき、怪物はただの酔っ払いと化し、彼が長年月をかけて創成した宇宙を、版画は怪物となって飛んでくる」と、さすが気鋭のロマンチストらしい形容でオサム伝を結んでいる。

 この章では、新聞や雑誌に掲載された孝身をはじめ同人らの論考や展評、さらに対談や詩作品を紹介。活動の広がりはマスコミの格好の取材対象となり、理論家でスポークスマン役の菊畑は専門家らと対談、「地方主義を掲げて戦う」「青春を使い果たした運動」などと紹介された。さらに九州派に「美術界の新時代」を見た〝同伴者〟記者たちが彼らの一挙手一投足を追い掛けた。当時のフクニチ記者・深野治は「現代美術の『可能性』を肉感する」、また「何を、何のために、誰のために?」と題して、毎日新聞記者・田中幸人は当時の東京都美術館の情報誌に「『九州派』のこと」と題していずれも長文の評論を書いている。

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 ここまで書いて、疲れた。孝身の書いたものを読みふけるうちに、心身に変調を来したようだ。体を動かせない疲労感と神経の異常な高ぶり。何かに駆り立てられ、攻撃的な気分になる。心を病んだのか? 孝身の「作品の内面化」という仕掛けに掛かったようだ。もしかすると〝九州派の危ない薬〟なのか〝孝身芸術の毒気〟に当てられたなのか? 孝身の文章の判りづらさは、おそらくレトリックを思わせながらロマンチシズムに落とし込むからだ。そして結論がない。前述したように、彼は経過を楽しんでいる。生き方そのものがパフォーマンスなのである。私自身も今更ながら、彼のパフォーマンスのオルグの軍門に降ったようだ。

  


赤瀬川原平の細密画(「美術手帖」1971年10月号より転載)