3時間が緊張のうちに過ぎていた。さすがにアカデミー賞受賞作だ。予想できない展開にスクリーンから目が離せなかった。と言って派手なアクションやミステリーがあるわけではない。

 村上春樹の小説を映画化した濵口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」。アカデミー賞国際長編映画賞受賞だが、決して原作をなぞったストーリではなく、筋書きの個性も尋常ではない。劇中劇のように輻輳するチェーホフの「ワーニャ​​​​​​​伯父」が映画を濃密に奥深いものにしている。

 災害で愛する人を失った悲しみ、障害のある人の当たり前のような存在、国際化の暮らし。さらに、自然な行いのごとく愛せなくなったつらさ、愛を理性で統御しようとする悲しみ。全存在の言葉を失った主人公たちは、肉体あるいはセックスで自身を含む何者かの記憶を語りだす、人の本性の言葉として。

 理性は脆弱だ。肉体と感情に支えられて理性も確かに生きて存在できる。

 「ワーニャ伯父」の舞台稽古の展開が現実の悲しみを一層膨らませ、カタルシスの快感を観客に与えてくれる。

 

 帰宅してすでに時計の針は夜10時を回っている。静かな居間に一人、映画を考え、小説を想う。そしてスマフォを探る。たった一本だけのアネモネとチューリップのギャラリー画面。昨年秋、孫がフェンス沿いに種を播き、球根を10数個植えたのだが、それぞれ1本だけが花咲かせてくれた。こんなことも実は孫には大事件であるはずだ。真っ赤なチューリップと真っ白のアネモネ。ワクチン接種で発熱し、隣の部屋に寝込んだ孫がなんとも愛おしく思われてくる。