松田雅子さんの小説「舟を待つ頃」の第2部(「西九州文学」第47号)は父親の「自分史 第2章 学徒動員」。小説の佳境ともいえる学徒動員後の原爆被爆体験を柱に綴っている。わずか2年半ばかりの高校生活。東京での勉学三昧の幸せをかみしめて長崎に帰郷した。早速、長崎のグラバー園内にある高射砲連隊本部に出陣学徒として出頭の後、全員が「東洋一の基幹基地」大刀洗飛行場に送られ、「学生気分を抜き去る厳しい訓練」を受けた。
8月9日、朝から、いつものように飛行機の整備など日課に励み、11時に休憩に入ったところ、西の有明海上空に大きな雲が湧いた。長崎の方角。広島に新型爆弾が落とされた話を聞いたばかりだった。長崎もやられたか。家族は大丈夫だろうか…。長崎の兵隊たちに「帰還して救援活動をしろ」と命令が下った。
諫早駅には救援列車で運ばれた負傷者があふれ、大村や川棚まで運ばれていた。列車はゆっくりと道ノ尾駅まで下った。徒歩で南山手の連隊本部を目指す。早速、遺体処理に当たった。火葬場だけでは足りずに大きな穴をいくつも掘り、遺体を積み重ねて火を点けた。来る日も来る日も作業を続けた。まさに地獄。鬼のような作業に従事したのだった。
自分史は「爆弾の被害のなかった西山の地には、黒い雨が降った」などと、戦後に続く原爆被害を告発して終わる。
小説「舟を待つ頃」第2部はエピローグを「学生時代のことなど、少しも語ることのなかった父が、これほどの戦争体験を経ていたとは、また、これほど被爆に近いところにいたとは、早季子にとって思いもよらないことであった」と父への労りの言葉で結ばれている。
小説「舟を待つ頃」は第2部で完了ではないようだ。
父親は、出生から青春時代の来し方を確かな自分史として記録した後、原爆被爆を含む戦時体験については証言記録のように書き綴っている。しかし、出生から書き起こされた文体・内容はまさに父の自分史。痴呆症が未完のままにペンを置かせたのである。〝戦後と今とがまだ書かれていない〟という思いが娘に生れても不思議はないだろう。
だとすれば、早季子の少女・青春時代を織り込んだ父親の自分史が「第3部」として続いても不思議はない。取材や、父の遺した書き物を頼りに著者自身の生きざまを含めて綴られた父と娘の〝自分史〟である。
さて、読後に思われたのは、この小説のタイトル「舟を待つ頃」に込めた著者の思い。英文学研究者でもある著者は、長崎生まれで英国籍のノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの研究・翻訳にも取り組む。そのイシグロの長編小説「忘れられた巨人」に不思議な渡し守が登場する。
物語はアーサー王伝説やサクソン人とブリトン人の闘いの説話、ケルト神話などを下敷きにしたメルヘンだが、物語の前後に登場する蜻蛉のような不思議な渡し守。息子の住む村を訪ねて旅する主人公の老夫婦に、その渡し守は、島に二人一緒に渡すには夫婦間の確かな愛情の確認が必要で、「一番大切に思っている記憶を話してくれ」と言う。愛情が無ければその島では他人が目に映らず、自分一人だけの孤独に置かれると。終幕で老夫婦は別れて船に乗る。「きっと再会できる」と信じてのことだったが…。
早季子と認知症の父はどうだろう。二人一緒に舟に乗れそうにない?と早季子の思いは複雑のようだ。頑固な父への反抗心と畏敬の念とが錯綜する。だが、舟はきっと迎えに来てくれる。