ジャンポール・サルトルの劇作「狂気と天才 キーン」(鈴木力衛訳=人文書院 昭和31年1月発行)を読みました。
実存主義を気楽に理解できるのでは、などと怠け者の思惑で〝脇道〟の戯曲を選んだのですが、これが哲学ではなく、劇の面白さに徹した拾い物でした。実存主義らしき理屈の面影は微塵もない。その意味でも、さすがサルトル!と感心しました。
主人公エドモンド・キーンは18世紀初頭に英国で活躍した実在のシェークスピア俳優とのこと。当初、アレクサンドル・デュマが劇化し好評を博したのを、サルトルが現代劇化したとされています。
主な登場人物は人気役者キーン、じゃじゃ馬アンナ嬢、キーンと相思相愛のデンマーク大使夫人エレナと、その夫の大使ケーフェルト伯爵、そしてプリンス・オブ・ウェルズなど。
舞台でキーンが演じるのはハムレットであり、マクベスでありロメオ。舞台で共演するエレナに、あるいは桟敷に座るエレナに憑依するのは恋人ジュリエットやオフィーリア、またデズデモーナです。
読んでいて、キーンのどこまでが天才で、どこからが狂気なのか、私の鈍い頭には即座には理解不能でしたが、キーンが意識的に演じれば〝天才〟となり、無意識のうちに演技じておれば〝狂気〟となる…いや逆だったか?
愛を告白するキーンとエレナだが、迫真の演技なのか真実の言葉なのか、その二人のズレが狂気を呼ぶといった世界のようです。
天才的役者は自然な物言いで台詞を吐くという高い芸術性を発揮するのですが、素人のエレナはそれを本気の言葉と誤解するのです。ここから悲劇が始まる…。
打算や意図のない純粋さこそ芸術、ということでしょう。
最後にパトロンの一人であるプリンスに言ったキーンの告白を紹介したい。
「わたくしたち俳優は、法の外に置かれています。政治活動をすることができるでしょうか?船長の免許状を手に入れることが、決闘をすることが、法廷で証言することが、できるでしょうか。(略)恋以外の何一つ残されていない。ご婦人たちのベッドの中に入ったとき、はじめて人間になれる。ベッドの中でしか、あなたと対等になれないのです」
世阿弥「風姿花伝」を思い、今の芸能界の俗的変質にも思い至った次第です。