日大闘争が思い出される。あのアメフト不正騒動でもそう感じた。
日大闘争は60、70年代学生運動の象徴的出来事でもあった。
学園闘争の日常を清冽な感性で描いた高橋和巳「わが解体」については、このブログで触れた。学内の状況が当時と似通っていることに、まず驚いた。何も変わっていなかった。
そして、日大の今回の背任・脱税事件である。大学経営陣に変化がいよいよ訪れるか。
しかし、こんな状況にあっても学生たちは何も発言しない。
70年代に学生をやった私など、不思議でたまらない。
なぜ、どのように学生たちは変容したのか? とんでもない変わりぶりである。
で、中上健次の「一番はじめの出来事」「十九歳の地図」(1974年刊)と、これも芥川賞受賞作家・金原ひとみの「蛇にピアス」(2004年刊)を読み返してみた。
中上は、社会・世間に対して全方位で刃を振り下ろす。路地裏から吠えながら、目前の〝敵〟を撃ち続ける。こんな自分に誰がした!と、生の証を求めて吠え続ける。敵は女であり兄妹であり、路地に生きる存在の背景にある〝状況〟である。
一方の金原は、ひたすらヒロインの身内に〝刃〟を向ける。舌先にメスを入れてピアスを、背にはタッツゥの鍼を刺し続ける。〝自虐行為〟は、舌先から全身へと包囲を広げる。仕方ないじゃん…と確かな存在感を求めてうめき続ける。こちらは街中としても、やはり路地のようだ。
両作品には30年の時代の隔絶がある。主人公は男女の違いはあるが、結局はどちらもプロローグから破滅を予感させる。
ひたすら状況を撃つ中上。ひたすら自身を撃つ金原。金原は、中上と対比すれば「新・内向の世代」と呼べそうだ。
この内向きの世代の一人に「スペインの宇宙食」(2009年刊)の菊地成孔も挙げたい。ノンフィクションを思わせる日誌体の小説?
主人公の若いサックス奏者(菊地自身)はグルメで飽食と音楽の日々。彼の周辺では「ピアス」と同様、死の危険を賭してまで男女が究極のセックスプレイに興じる。
「ドラッグも、セックスも、マネーも、僕にとっては音楽と食べ物の下僕に過ぎません」と言い放ち、さらには「憎悪と戦争も、それによる強烈な不条理感も含め(愛や平和と同様に)快楽」と言い切る。
ジャンク・フードから高級料理までグルメと音楽とセックスの極限から語り尽くす時代状況。肯定観に塗り込まれた著者の現状認識ではあるが、語りの〝飽食〟によるカタルシスで状況がリバースされてしまい、文意を〝現状否定〟に変容させたように読み取れる。
さて、学生たちはバイト、授業で忙しい。が、これは70年も変わらない状況だった。であっても、私の学生当時は〝社会悪を撃つ〟学生たちの運動があった。気色の悪いもの、吐き気のする何物かの出所が政治であり、社会であるとして若者らしく? 過激な運動を展開した。
翻って現在は、誰もがバーチャル・リアリティを手に入れた時代である。平穏を装った社会に逃避できるシステムのように思えるが、反面、非現実・想像の世界にまで現実が侵入したともとれる。想像の世界が現実生活のツールとなったのだろうか。とすれば、状況は何も変わってはいない。学生たちに最早、逃げ場が無くなったということだけは確かな現実のようだ。