私の住む長崎県長与町・嬉里谷地区に、「尻無川」という奇妙な名の谷川が流れ下っています。里山である地区一帯では、琴の尾岳に連なる山々に浸み込んだ清水があちこちに湧き出ています。そんな流れを集めて「尻無川」が姿を現しているのでしょうか。

 自宅前を旧農道の町道「嬉里谷・佐敷線」が走っているのですが、谷川は山手から流れ下り、この小さな道を横切って畑地を、そして住宅街を流れ、国道、県道を繋ぐ街中の町道を貫いて長与川に注いでいます。私の歩幅の感覚では、住まいのある嬉里谷の町道から長与川まで200~300㍍の流れでしょうか。

 嬉里谷の町道の山手上部から三筋の流れが下っています。

 自宅に近い手前の一筋目の細い流れは溝蓋のある側溝から竹林を流れ下って一端、湧き水と合流、ゆっくりとした流れを作っているようです。この小川は本流に対して支流です。今も上流域は清流を保ち、地元の人々の野菜の洗い場として重宝されています。

 尻無川は三筋目の流れです。町道のすぐ下辺りで二筋目の流れが合流、水かさを稼いで本流を形成しているようです。この本流は、町道下に2メートル近い高さの〝滝〟となって流れ下り、小さな滝つぼを形成。昭和の頃、子供たちの川遊び場として親しまれた面影を今に伝えています。

 滝つぼの流水は以後、幅1~2メートル、高さ約1メートルの川の流水となって畑地そばをサラサラ流れ、竹林側の小さな支流を引き込んで、住宅街から街中の主要町道の地下を横切り長与川に注いでいます。

 「生まれも育ちも嬉里谷」という流域に住む81歳の女性は「昔は、雨が降ると山全体から水が集まってゴウゴウ流れていた」と谷川の激流を回想、「私たちは、ただ川と呼んでいた。尻無川は下流の名前でしょう」と話していた。

 思えば、ここら一帯は湧水の地なのです。いわば嬉里谷は水の谷でもあったのでしょう。さらに今でこそ住宅が密集する地域ですが、1960年代まではミカン畑に加え、特に下流域は一面、田園地帯だったのです。「尻無川」は田んぼに流れ下っていたのです。

 ということで、清流を集めた川は、田植え時の絶好の用水として田んぼに注がれ、川の姿は消滅。で、「尻無川」というわけです。これは私の想像です。が、あながち的外れとも言えないのでは? 清流を養分とした「嬉里谷米」。おいしいお米が取れていたことでしょう。

 宅地に変った現在、再び川の様相を呈し、平地に降って住宅団地の路地や街中の町道の地下を大型の格子状溝蓋を被せられて流れ、長与川に注いでいます。

 先のご婦人は言っていました。

「水道が無かった時代、みんな水のある土地を求めて家を建てたのですよ。自前で水を引いてですね。水が無きゃ生きていけないから」。滋養に満ちた言葉、噛み締めました。

 滝つぼ今も洗い場支流㊨が合流川尻があった!