久原巻二先生の「長与の歴史・地理を学ぶ会」を聴講させてもらった。テーマは「堂崎の狩人」。この名称に関心をそそられて参加したのだが、話の内容も興味津々、郷土史の醍醐味を味わった。
堂崎遺跡は長与町最北端の岡郷にある。周囲は海食崖となっており、標高10から40メートルなどと、最初に説明があった。
町内最古で最大の遺跡とされ、多量の石器が出土する旧石器時代に始まり、弥生時代までの長期の遺物が見られる。古墳時代の遺物も少量だがあるらしい。
狩人たちの時代は3万年前の旧石器から縄文時代。「ビュルム氷期」の最寒冷期にあたり、海面低下が進んだ時期という。そのため、当時の大村湾は大盆地で大草原であり、堂崎はその草原を群れて生きる動物たちを見下ろす格好の崖上だったらしい。
狩人たちはどんな生活をしていたのか。東広島市の「西ガガラ遺跡」の掘立柱の穴の柱列を例に挙げ、幾時代を超えた長い年月、集落造りを繰り返した跡としたが、堂崎での出土例には触れられなかった。
集団の様子を少し覗いてみると、住まいは竪穴式住居で、円錐状に草木の屋根をふいた粗末な造り。大型獣の狩猟が進むと獣皮の屋根が登場したらしい。集団(バンドと呼ぶ)は、中央の地に煮炊き場を設けた20~30人の生活だったとみられている。
では何を食料としていたのか。当時は狩猟・採集の時代だったが、木の実を着けない針葉樹林帯の堂崎では採集が見込めず、大型獣の狩りによる肉食だった。で、東北部にはマンモスもいたのだが、西南部の大村盆地では専ら、ヤベオオツノジカや熊、ナウマン象もいたようだ。イノシシは縄文時代からという。
狩猟道具は石器だが、先生の調査では、堂崎遺跡からも長与最古(3万年~1万8千年前)の石器としてナイフ形石器、彫刻型石器、台形様石器、尖頭器など多種出土。さらに1万8千年前から1万5千年前(細石器文化)の狩猟具とされる槍形石器なども出土している。
さて、興味津々、旧石器時代の〝堂崎人〟(筆者命名)たちはいかにして大型獣を仕留めていたのか、狩人たちの命がけの狩猟の様子を見てみたい。
堂崎遺跡の地は盆地の崖上。見晴らしのいい台地であり、湧き水もあったらしい。ナウマンゾウやオオロックス(牛の一種)、オオツノジカなど、群れる大型獣の動きを常に監視できる。寒冷・乾燥期の事である。先生によると、空気が澄んで見通しの効く環境にあったのではないか、とのこと。
当然一人では太刀打ちできず、集団での狩りとなる。まずは水辺での待ち伏せ戦術、槍を立てた落とし穴や、崖上からの追い込み・追い落とし戦術、岩石を投げ込んだりした。さらに沼地への追い込みなど。
堂崎遺跡一帯から、肉を蒸し焼きにする道具と思われる丸い岩石が多く発見されるという。今はやりの焼肉料理だが、当時は他には何もなく、当然の主食だった。
大昔の〝堂崎人〟たちが何を思い、どう考えて暮らしていたのか。長与のDNAに静かに耳を傾け、先人の思いに立ち返って自身を振り返る、そんな機会となった歴史講座だった。
(挿絵は久原巻二先生作成の資料より)