遠藤周作は小説以外の随筆などを書く場合、筆名「雲谷斎狐狸庵山人」を名乗っている。あるいは「狐狸庵山人」と略称も使っていた。「うんこくさい」は「ウンコ臭い」である。
「狐狸庵」の使用は随筆集「狐狸庵閑話」(昭和45年5月20日初版・講談社)がおそらく最初ではないか。その序に「(略)竹林既ニ求メ難シ依テ雑叢中ニ一個ノ草廬ヲ営ミ以テ狐狸庵ト号ス而シテソノ日録ヲ狐狸庵日乗ト称シソノ雑藁ヲ狐狸庵閑話ト題ス(略)」と擬古文調である。序の筆名は「日念暮亭主人」(ひねくれてい しゅじん)となっており、重ね重ねのおふざけである。
当時は結核を発症して、ともすれば絶望感に苛まれる状況にあった。その苦境を、「こりゃあかんわ」と、持ち前のおふざけと笑いで乗り越えようとしたのだろう。
跋もある。「(略)初めて世に問ふ『狐狸庵閑話』何うした都合(はずみ)か読者(おきゃく)が附き、こりゃあかんわどころでなし。版元懐中(ふところ)温り、頗るつきの莞爾顔(略)」
読者は「雲谷斎」よりも「狐狸庵山人」あるいは「狐狸庵先生」が馴染み深いだろう。
単なるキリスト教文学ではなく、宣教性を排した〝人間の文学〟を追究した遠藤だが、戦いには〝小休止〟が必要である。そこに随筆があったのだろうか。さらりと読んだ印象だが、随筆にも彼の宗教観が大きく投影されている、とも思った。
彼は日本文学史上、戦後作家たちに続く「第三の新人」のグループにある。彼と親しく付き合った作家に三浦朱門もいた。
その三浦に「雲谷斎狐狸庵山人の生いたち」なる一文がある。1974年8月刊行の「遠藤周作文庫 ぐうたら交友録」(講談社)の解説(小学館「群像 日本の作家22 遠藤周作」所収)。
「遠藤はフランス留学から帰りたての文学者のくせに、実存主義やサルトルを口にしないだけで奇異な存在と言えた」と初期の印象を語り、「キリスト教と文学という問題に対してはムキになって答えていたが」、フランス文学が俎上にのぼると「もしもしカメよ、クソをする」という替え歌で座をケムに巻いたという。
三浦は言う。「彼にとってウンチは実存主義その他、高級な文学的話題の代用品」と。話題をクソ、ションベンに逸らすように見せ掛けて遠藤は、実は「人間の根源的なあり方に立ち返ろうとする」というのだ。美女であれブ男であれ、みな同じクソをタレるではないか。そして「実存的人間すなわちクソッタレ」の結論に導く。遠藤のおふざけは決して戯言に終わらず、実存主義論の分かりやすい例え話、というわけだ。
ユーモアとキリスト教についても触れておきたい。
リチャード・コート著「笑いの神学」(聖母の騎士社刊)がある。「今日、信仰者の信仰に満ちたユーモアのセンスに直接に訴えることもせずに、また、そのセンスからなにも引き出さないような福音の宣教は効果がない」と言い切っている。
カトリックはかつて、プロテスタントをはじめとした他宗派との〝抗争〟を信仰の証としていた。当然、多神教の日本にも一神教の在りようを強制していた。
だが、自由な信仰と、日本の歴史に根差すキリスト教を求めていた遠藤である。小説「白い人、黄色い人」や「沈黙」「深い河」などでバチカンに「ノン」を突き付けたのだ。「沈黙」で司祭に踏絵を踏ませ「人の弱さ」をアプリオリに、信仰の在りようを求め続けた遠藤。一時はカトリック組織から排斥の憂き目に遭ったのだが、遠藤の確信は揺らがなかった。
1962年から65年にかけて開かれた「第二バチカン公会議」。ついに〝宗教戦争〟の終焉と自由な信仰の保証を世界に宣言した。多神教の歴史に根差す日本独自のカトリック信仰の道を求め続けていた遠藤。全世界に自由な信仰を〝認めさせた〟のである。
遠藤の笑いと遊び。その背景を考えると、死の恐怖と不安、信仰の緊張の日々の裏返しの奇行だったとも理解される。
潜伏キリシタンの苦難の歴史への深い思いを背景に、笑いに隠して彼の信仰と闘いはあった。遠藤没後25年の功績を振り返り、「信仰の自由」が多くの人々の命を礎にもたらされ、花開いているのだと今更ながら再認識させられた。