長崎歴史文化博物館で開催中の企画展「博覧会の世紀」(11月28日まで)を見ました。
江戸末期から近代化以後の万博をはじめとした日本国内での博覧会の展示の様子を、当時のポスターやカタログ、記念写真、さらには貴重な映像などで紹介。富国強兵・殖産興業、そしてアジア進出、列強参入の各時代を背景にした文化的〝成果〟を知ることが出来ます。
建築・鉄道・機械の進化・発展、陶器やガラス製品などの国際流通化を、時代の節目ごとに伺うことができ、〝産業と文化〟を両輪として国内から世界へ発展の波を及ぼしていった歴史を俯瞰できます。
長崎関連では、1952年の「長崎復興平和博覧会」が長崎民友新聞社主催で後の「平和公園」、当時の「原爆中心地高台(長崎刑務所跡地)」で開催されており、パンフレットや記念朱印帖が展示されています。
ところで、あれっ!と思った展示がありました。「輝く日本博覧会」のポスターとパンフレットです。同展は1936年(昭和11)、毎日新聞社と東京日日新聞社の主催で、兵庫県浜甲子園を会場に開かれています。「モダニズムの意匠でデザインされた展示館」と紹介があり、そのうち汎太平洋館には米、ソ、カナダ、フィリピン、南支那などの物産展示があったと記しています。
さて、目を引いたポスターは横約80センチ、縦約60センチ。会場全図をはじめ各展示館、地図などがカラフルに描かれています。
ところがです、このポスターの書体がすべて〝左書き〟なのです。当時は、みなさんご存知のように、文章は横書きであろうと右書き起こしですよね。不思議だなーと思いその場に長居してしまいました。下段の主催者名、すべて左から書き起こしています。ところが、パンフレットはなぜか、左書きは各館の会場名だけでした。迷いがあったようです。
開催の1936年といえば、ロンドン軍縮会議脱退・満州国承認(1月)、二・二六事件(2月)、日独防共協定調印(11月)と、戦争準備の強硬施策が続きました。
ポスターのこの〝揺れ〟の不思議。後に首相になり、終戦で戦犯として無念の処刑に服した広田弘毅外相の時のことです。海外各国におもねった結果か、それとも将来を見据えての英語圏への配慮だったのか、どうなのでしょう。このような例はいくつもあったのでしょうか。博物館の方に聞いたのですが、理由は不明とのことでした。
撮影禁止なので画像で紹介できないのが残念ですが、ぜひ観覧してみてください。こんな不思議がある展示はいいですね。面白い。(写真は案内パンフレットより)