山田洋次監督の〝ダメ男愛〟は、彼の青春期までのある体験がきっかけでした。
『昭和の歴史 第8巻 占領と民主主義』(小学館)の「月報8」誌上に対談「『戦後』を生きて」で明かしています。対談相手の神田文人氏は同書の著者で、聞き役的な立場。山田監督の戦時体験を引き出しています。
1983年2月4日、東京・松竹本社での対談。監督は1931年9月生まれですから当時53歳でしょうか。赤裸々に語っています。
まず、満州引き揚げ時と戦後の状況のおさらいから。
山田監督の生地は大阪。赤ん坊の時に満鉄のエンジニアだった父親の関係で満州で育ちました。長春・瀋陽・哈爾濱(ハルピン)・大連などです。
1945年、大連一中の時、対ソ連の戦車壕を掘っていて正午の放送(終戦の詔勅)を校庭で聞いたといいます。
八路軍支配下で、一軒の家に数家族が共同生活。高粱や粟で飢えを凌ぎ、本人も中国人の親方から仕入れたピーナツを売って生きる足しにしたといいます。
翌1946年3月に引き揚げ。もともとは福岡県の柳川ですが、叔母の嫁ぎ先の山口県宇部に住みます。宇部中学3年に編入。猛勉の末、山口高校に入学。1年浪人して1950年に東大に入学しています。
ここから対談は「寅さん映画の原風景」の巻に移ります。
引き揚げ者の貧乏暮らしゆえ、中学時代からアルバイトに精を出した若き日の監督。宇部炭鉱の坑木運び、トロッコ押し、海岸埋め立てなど肉体労働に精を出した山田青年です。
「親方が金という朝鮮人で、心やさしい親方だった」と振り返ります。
「きつい仕事だったけど、金さんは銭をごまかさなかった。仕事が終わると『オイ、ヤマタ、コチ コイ、コレノメ』。丼にきつい酒をついでくれてキムチで飲めというわけね。ぼくは飲めないからつらくてね。一口飲んで苦しがると、みんなドッと笑う。それがぼくにとっては幸福だったね。みんなはぼくをからかって笑っているわけだけど、笑うってことが愛情の表現だったのね」
周りはみんな朝鮮人だったといいます。彼らから見たら当時の山田青年は貧弱な中学生。
「かわいそうだと思ったんでしょう。それで余計愛情を注いでくれた。戦争中はぼくら日本人は、いちばん軽蔑してきたわけでしょ、彼らを。ところがぼくにとっては、あの時期、金さんこそ、いちばんいい人だった、信頼できる人だったね」
戦時の支配・被支配の関係を忘れて笑い合った体験を明かしています。
神田氏は「そうだろうね、そのへんに、山田監督の笑いの映画の原体験というか原風景というか、あるような気がするんだけど」と応じています。
「もう一つ言えば」と監督は、笑いに関わる当時の大切な記憶を明かします。
進駐軍の使役に行った時の体験。「コークス運び」と「便所のおわい運び」とに振り分けられるのですが、ある日、おわい運びに当たった寅さんみたいな男が言ったといいます。
「なんだ、毛唐のたれるものは、くさくないというのか、たれるものは、みんな同じだろ」。
どこかで聞いた物言い。まるで「けっこ毛だらけ猫灰だらけ、おサルのおけつはまっかか」などと、あの寅さんの名ゼリフが聞こえてきそうです。
その時、山田青年には、これが痛快に聞こえました。さらに美人看護婦もいる病院です。男は天秤をかつぎながら「これは金髪美人がたれたんだぞ」。
監督は「苦しい、いやな仕事も、寅さんみたいな一人の男のおかげで、つらさを忘れさせてくれる」と当時の心境を語ります。
「人を笑わせることに生き甲斐を感じている人も、ぼくはすぐれた人だと思う。実際に、いいタイミングでズバッと核心をつく、いい冗談が言えるってことは素晴らしいことで、頭の回転が良くなきゃできないし、思いやりのある心のやさしい人だと思うね」
名匠 山田洋次監督の「笑いの原点」をめぐる発言は、そのまま「ダメ親父誕生の現場」を明かした言葉のようでもあります。おわい運びの寅さんのような男、そして金親方に可愛いがられた山田青年自身がその意味で〝ダメ男〟でした。悲惨な戦争の中で笑いを生み出したダメ男たち。悲しい状況の中でこそ笑いは威力を発揮します。ダメ男たち出番でもあったのです。 今の〝平和〟日本では真実の笑いを見
出すのは、かえって困難なのでしょうか。テレビを支配したお笑い芸人たちの、あざとい笑いが空虚に映ります。