自分の住んでいる長崎県長与町が長崎原爆の「被爆地」であると明確に認識したのは、恥ずかしいことですが最近のことです。あくまでも長与は原爆の余波を受けた地であり、直接被爆の地ではない、との曖昧な認識でした。恥を忍んで経過を証言しましょう。

 長与に住んで30年近くになりますが、長崎原爆は長崎市内の出来事で、長与は、隣村だったことから逃げ延びて住み着いた人、また原爆の余波として、それこそ入市や黒い雨など二次被害で放射能を浴びたり体内に取り込んだ人が住む町、といった直接被爆の影響の無い、あるいは薄い地域との認識でした。ポロリと目からうろこが取れたのは「長与九条の会通信」第46号を読んでのことです。

 同「長与九条の会通信」は伝えています。

 「核兵器禁止条約締結国会議」への町長の参加を要請した、と。会議は来年1月12~14日にウイーンで開かれるとのこと。さらに同通信は、「長与町は被爆地であるとの立場から長崎市・広島市の市長とともに、町長も被爆地首長として締結国会議に参加し、被爆地の声を届ける努力を行うよう要請しました」とありました。

 わが長与町長がウイーンの会議に参加、発言するなんて、なんだか夢のようですが可能なのですね。

 

 私の〝被爆地・長与〟の認識の弱さ。原因の一つに「入市被爆」という言葉の誤解から生じたとも言えるかもしれません。「入市」による被爆、あくまでも「市」とのイメージの定着です。市に限らずとも、爆心地から12キロの同心円内が被爆地ならば法的には、はっきりと長与村(当時)の一部も圏内です。被爆地なのです。とすると「入村被爆」のケースもあるのでしょうか。

 

 被爆者健康手帳の交付は、県や長崎市などのHPでは長崎市が24,054人、長崎県(長与町など)が9,189人となっています。この9,189人のうちの何人の方々が長与在住者なのでしょうか。そして、どんなケースでの被爆だったのでしょう。不覚です。きょうは8月8日、長崎原爆前日。不勉強のまま、この夏の原爆忌も過ごしてしまいそうです。

 

 同通信は、吉田・長与町長に要請した平和事業の推進の経過も紹介していました。これまでの要請事項の成果について、主に「被爆銘板」設置の町の取り組み方を紹介しています。

 まず、被爆者の救護活動を行った『長与国民学校』、被爆者救援列車1号が出発した『長与駅』、被爆者が収容された『長与国民学校高田分校跡地』の3カ所に銘板設置の成果を得たとしたうえで、「救援列車の基点」であり、駅前広場に救護所が設置された被爆遺構『道ノ尾駅』については「適地が無い」との理由で実現していないとのこと。町側は「設置に向けて努力する」との表明があった、とも伝えています。

 

 そこで私は、まずは被爆遺構を訪ねることで〝被爆地〟の認識を深めようと思いました。まずは近場の被爆遺構・記念碑を訪ねてみました。それこそ駆け足の遺構巡りです。

 JR長与駅をスタート。駅前ターミナルの「平和 萬歳」碑はその大きさに、あふれるような「平和」の希求が感じられます。生前、長与に住んでおられた書家、大浦澄泉さん揮ごうの書。企画や設置場所は地元の今は亡き俳人、柳原天風子さんです。ターミナル広場中央の救援列車の大車輪は本物です。この大人の背を超える大きさも〝救援〟への思いの強さがあふれて感動的ですね。写真や原爆絵も紹介しています。 さて次に、駅前東口の面前にそびえる中尾城公園。頂上が「平和のひろば」として整備されています。手前に「平和で安全な町宣言ー核兵器の廃絶を願って」との町の宣言文が紹介されています。文面は、強い意志が伝わてくる丁寧な文章です。

 水辺を兼ねたエリアに「愛・二人」と題された若い男女像が立っています。気持ちを穏やかにしてくれます。ほかに「平和の塔」や長崎の被爆者から送られた「被爆三世ザクロの木」が平和への思い、交流の大切さを伝えています。

 この中尾城公園。春は桜の名所で花見客でにぎわっていましたが、コロナ禍でさぞや閑散とした日々だろうと思っていました。それが、なんと担当者に聞くと、このごろ一日に100人余りが訪れるといいます。それも学生たち若者が多いと。繁茂する桜の枝木が日差しをさえぎり、涼風を届けてくれます。コロナ禍で格好の近場のデートスポットということでしょうか。そして役場隣の町武道館裏の墓所に建つ「原爆受難者の墓」をはじめ「平和の心」碑、「長與町団地無縁之墓」などの立ち並ぶ石碑や墓の数々。前に立つと、被爆者や戦争被害者の原爆への怒りや反戦の意志、遺族らの平和への思いに圧倒されます。ー長崎原爆は〝長与原爆〟でもあった。長与は確かに被爆地ーそんな思いを強くしました。

 

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