人間を原子の大きさにまで縮小して人体に潜入させ、脳の患部を治療するというSF小説「ミクロの決死圏」。奇想天外な発想でありながらも、科学的根拠に基づいた内容で読者をリアルに未知の世界に導いてくれる。
であるのに、本を開いてプロローグから違和感を持ってしまった。
唯一と言っていい女性の登場人物。潜航艇プロテウス号の乗組員コーラ・ピータースンの描き方である。執刀(レーザー光線照射)する脳外科医デュバルの助手。この物語における彼女の役割が、どう解釈しても未来を描くSF小説の筋書きを導く人物とは思えないのである。
召集されて本部に姿を現したコーラ。プロジェクトのリーダーの秘密情報部員グラントとの初対面の場。物語の幕が開き、読み手の関心を引き付ける大事な場面である。
「(略)うちしおれた顔つきをしてはいるが、非常に美人で、おそろしく近々とデュバルに寄りそって立っている。とっさにグラントは、この外科医を好きになるのはむずかしそうだという感じをもった(略)」(ここで私は、えっ?と思った)
「グラントの視線がまたミス・ピータースンへ移った。彼女はひどく困った様子だが、そのくせデュバルを見つめる表情は、昔ビーグル犬が、学校から帰った小さな主人を迎えるとき目に浮かべた表情そっくりだ。グラントは見ていると、ひどく悩ましくなった」
「女性を連れていくのも悪くないよ。その方が男たちは張り切るだろう」「(略)彼女が乗り組んではまずい理由を、なにか知っているのかね?」「女性ですからね。いざという場合に、頼りにならないかも知れませんよ(略)」
ーまだ縮小の前段、プロローグからこれである。
さて、いよいよ潜航艇プロテウス号に乗り込み、縮小される時。
「(略)ただわたしが女だという、ぜんぜん無関係なことが、なにかにつけて邪魔になるの。かばわれたり、恩に着せられたりすることが多すぎるわ。どっちもわたしはいや。とにかく、仕事の上ではいや。おかげで、欲求不満がつのるばかり」「きみのセックスがどうだろうと、こうなったら、うかつな口をきいて、自分を束縛するような羽目にならないように用心しよう」 (米映画によくある〝じゃじゃ馬ならし〟のやりとりのよう)
「彼女の美しさを、賛美の思いを抱かずに見たのは、これが初めてだった。差しあたり、かれはただ困惑しかなかった」「(略)この航海が終わったあとで、もしもまだ、あなたが若い女性の前でやりなれてらっしゃる儀式の続きをやりたいという欲求があったら、そのときはお好み(お望み?)どおりにお相手になりますけど(略)」ー挙げればきりがない。まるで恋愛小説である。
読後、作中のコーラは何をしたのかを考えた。
レーザー銃を管理ミスで故障させデュバル博士に助けられ、蝸牛ラセン管内では繊毛に捕らわれてグラントに助けられるーといった〝弱い女〟役。イケメン情報部員グラントとの恋の駆け引き、男女関係を演じる美女役にすぎない。
SF科学小説でありながら、「女性」となると古い観念を踏襲。ジェンダー平等あるいはフェミニズムへの配慮が感じられない。初版発行の昭和46年は、まだそういう時代だった、ということだろう。
コーラは元々、このプロジェクトで何かを成し遂げるために登場させられた人物ではなさそうだ。だから配役が「助手」なのだろう。娯楽小説あるいは映画を楽しませるための文字通り「女優」として登場しているのだ。さしずめ「マドンナ」である。だが映画「男はつらいよ」のマドンナのように振る舞いを通じて生きる喜び・悲しみを表現する女性、寅さんのような男どもに人生の何たるかを知らしめる、しっかり者のマドンナではないようだ。
コーラは動く人形、アンドロイドとして造られた「可愛いマドンナ」なのである。ハヤカワSF文庫「ミクロの決死圏」より