柔道家・古賀稔彦さんが24日亡くなった。

新聞・テレビ報道で、彼の柔道に対する姿勢についての賛辞はやまなかった。

 特に「芸術的」の言葉が印象に残った。

 「相手を高々と担ぐ芸術的な一本背負い投げ」、そして「天才的なセンスあふれる闘いぶり」もそうだ。芸術は天才性がなければ表現できない。

 現役引退後も「私を見て、という表現力が大事」「光る選手がもっと出て」などと芸術的といえる表現で言葉を放っていたという。「光る」などとは、なんと感性の人なのだろう。スポーツの世界の発信と思えない。

 芸術的、センス、感性、天才、そして表現力などといった言葉は、柔道家ではなく文化・芸術分野の大成者に捧げる言葉と思えるのだ。

 このごろ、「文化」と「運動(スポーツ)」の両分野の垣根が消えたように思う。ゲームやダンスさえもスポーツとして競争イベントが開かれている。その融合の核心は「美」の観念の接近と思える。多分、柔道場での古賀選手の振る舞い自体が美しかったのだろう。

 

 作家・三島由紀夫は、ボディ・ビルで鍛え上げた肉体を惜しげもなく公衆にさらしていた。そんな彼が人気ボクサーの試合を観戦。何度もダウンしながらも、立ち上がっては相手を探すように鋭い目であたりを見回すボクサーの形相をリポートで語っている。

「この中に敵を、またしても自分に苦痛を与える相手を、必死に探し出そうとしている彼の目は、実に美しかった。こればかりは、舞台や映画では決して見ることのできないものだ」 (「三島由紀夫スポーツ論集」岩波文庫)。脅威に立ち向かう目に浮き上がる「美」を指摘している。

 佐々木健一著「美学への招待」(中公新書)によると、精神を鍛える手段と(略)見做されていたスポーツだが、今では、「美的/感性的なもの」として、芸術の性格を顕著に示すようになったという。「スポーツが倫理的な性格を葬って感性的なものとなり、芸術が技量的であることをやめて感性的なものになると、両者が符合する可能性があります」などと「美」的観念での融合を展望している。「スポーツは作品を残さないが、パフォーマンスの芸術(演劇、音楽、舞踊など)と見れば問題はない」

 先日、テレビのスポーツニュースでサッカーのボランチの役割について解説者が語っていた。具体的な言葉は頭に残っていないが、解説者の言葉を私が解釈して記憶に残したのは「ボランチは芸術家だなあ」という思い。

 と言うのは、ピッチ上でのボランチは、意図を離れたような自然な動きでボールの流れを作り出している、と理解したからだ。状況次第で足が動く自然さは、ギリシヤ神話のスポーツ神ニーケーが乗り移った動作と言えるのではないか。まさに神業である。

 これは物書きが筆記する時、文脈の流れに乗ると意図せずに言葉が次々に出てきて文章が誕生する、といった体験に相似する。で、私はボランチ=芸術家説を主張したのだが、スポーツ音痴の戯言、的外れなのでしょうか。