高橋和巳の「捨子物語」を読んでいる。「邪宗門」の前段のような筋書き。頻出する馴染みのない漢字と言葉が多用される。中途でページをたたむと、再読時に改めて数行前から読み返さねばならない。

 確かに高橋独特の言葉選びが難解だが、そのうちに物語の進行とともに没入していく自分がいる。この未知の漢字も読み手を没入させる重要な要素になっていることに気付く。文章がそんな古びた漢語に似合った文体なのだろうか。

 それはともかく、高橋の仕事は〝意識下に潜む何物かを可視化すること〟なのかと、読んでいて明かりが一瞬灯るように閃いた。古語を多用した饒舌は、読者を酔いの世界に誘い、意識下の何物かを可視化しようとするレトリックのようだ。 

 翻って現代文学の旗手、村上春樹。彼の小説はノーベル賞候補に挙がって以後、旧作も含めて書棚から抜き取っては気まぐれに読んでいるが、シュールな内容と文体が時に退屈な落とし穴に遭遇させ、高橋の小説のような没頭時間が保てない、訪れてこないのだ。たぶん、読者である私の問題だろう。

 そんな時、たまたまクリックしたブログに、村上作品講座があり、ブロガーの講師が「無意識の表現」を村上作品の特徴として挙げていた。そうなのか、と読み込みの浅い自分の不明を恥じながら、一方で高橋和巳がいる!と脳裏を電気が走った。

 「無意識の表現が特徴」の村上と「意識下の可視化」(あくまでも私の理解)の高橋。

 いや、そもそも芸術は無意識あるいは意識下の表現ではなかったか。純文学であればなおさら。意識の表現は作為、偽装。人の本質=無意識・意識下を表現することこそ芸術なのだ。とすると、村上作品の特徴はなにも特徴ではなく、芸術家なら誰でも挑むあたりまえの芸術行為だ。前代未聞の新世界を切り開いた小説群とは言えないのかもしれない。

 無意識と意識下ー。村上の前には高橋和巳もいた。村上がなぜノーベル賞をとれないのか、その背景の一端を見た思いがした。