長崎県長与町にお住まいで郷土史に詳しい歴史研究家、久原巻二先生の講話「長与の農業の発達と『百姓』」を聞いた。お話の内容は、大村藩全体の変遷と長与村独自の姿とを対比しながら、江戸期の農業従事者や耕地面積、作物、農具の変遷など多岐に渡った。

  なかでも興味深かったのが、土地を手離した「間(はざま)百姓」と呼ぶ没落百姓の長与村での突出した増加。水吞百姓とも呼ばれた人々だが、統計では「本百姓79戸」に対して「間百姓616戸」となっている。(参考までに漁業兼業の浦百姓51戸、釜百姓は34戸)。隣接する村々と比較すると、長与村616戸、時津村272戸、川棚村138戸となっている。本百姓や浦百姓などとの比率を見ると、長与村は百姓の88・6%が間百姓、時津村65・9%、川棚村32・5%。長与が群を抜いている。

 では、なぜ長与村で間百姓が急増したのか。理由として先生は、一般的に大飢饉の頻発が考えられるが、大村藩のサツマイモ栽培奨励の英断でいずれの飢饉も乗り切っていると否定。要因を「百姓層の分解」とした。

 土地を集積した長男層の豪農と、初期資本家的な商工業者の登場である。豪農が零細農民を小作人として使役、さらに資金や原材料を用立てて製品化を促して買い付けるという問屋制家内工業(マニファクチャア)の発展が「間百姓」を層として生み出したと推測。いわゆる〝労働者予備軍〟だろうか。その客観的条件として「大村郷村記」に「長崎会所に相納め」とあるように大消費地・長崎の隣接と、大村藩の「金銭も可」とした年貢制度を挙げた。

 長与は古くから農を基本として、生産物の加工・商品化を進め、商業地となった歴史があり、長崎との極めて密接な関係で経済発展してきた、ということだろう。今に続く貴重なお話だった。

 また「百姓」の名称について、「古代では一般人民のこと。中世ころから農業従事者(農民)を指す」と指摘。「百」は「おおくの、あらゆる、すべての」の意とされた。

 

 先生には、長与の地名の由来などを記した書籍がある。お話でも、江戸期の新田開発の名残りを伝える八反田、五反田、壱丁田、開田などを紹介。これらの地は川の合流地点や屈曲部分であり、小さな扇状地や湿地地帯に開発された、とのこと。私たちの住む土地の歴史が成り立ちから推察され、これも興味深い話だった。