本年のノーベル文学賞に米国の女性詩人ルイーズ・グリュック氏(77)が決まった。9日付の新聞が伝えている。「孤独やトラウマ(心的外傷)、家族関係などをテーマに数々の作品を生み出した」と詩人を紹介。授賞理由に「個の存在を普遍的な存在に作り上げる厳粛な美しさ…」云々とある。
このノーベル賞詩人については知識を持たないが、詩のテーマや授賞理由を目にして、ふと思い当たる詩集が浮んだ。長崎県の詩人、宮城ま咲さんの詩集「よるのはんせいかい」。幼い女の子の厳格な父親への恐れ、トラウマ、死、そして十七回忌を迎えての亡き父への真情。
「父娘の季節」から
おとうさん/かみを切る/ちょっきん/わたしつなぐ/おとうさん/また ちょっきん/わたしの手に/かみが乗る/輪つなぎ/いろがみみたいに/明るいうらにわ/ちょっきん
(略)
かおを上げたら/いない/おとうさん/どこいった?/作らないの?/輪つなぎ//
(略)
もっと続くと思ってた/お父さん床屋/父娘の季節
(略)
読書会の席である出席者がこの詩集のテーマに触れて「疎外」を指摘した。と、無口な詩人が、「そうです。そうとっていただけばうれしいです」と口を開いた。意見を求められた私が「時間が片づけてくれますよ」と詩人に向かって上から目線で感想を述べた直後だった。そうか、そうだったか…。私は「父と娘の悲しいすれ違い、葛藤のままの永遠の別れの悔恨」と詩を理解していたのだ。恥ずかしかった。「人間疎外」こそが主題であって「親子愛」は題材でしかなかったのか。
そこで、不条理、疎外、そして「個と普遍」、実存主義ならフランス文学、カフカかカミュか…ってなわけで、カフカの「変身」を読み返してみた。岩波文庫版の解説に「カフカの思索は、個人的なものと普遍的な真理とのあいだを、いわば『逃げまどっている水泳』ようなもの」などとある。「個人」と「普遍」の用語が目に止まった。そうです。今回のノーベル賞詩人の授賞理由に同じ文言があるではないか。 カミュの「異邦人」、ついでにドイツのシャミッソー「影をなくした男」までも読み直した。不条理・疎外・実存ーなどといった言葉を体現させられた主人公たち。こんな文言を意識しながら読み進めると、主人公たちの振る舞い、物語がなんとなくコミカルに映ってくる。読後、これはユーモア小説の一冊か? と、またまた読み直す羽目に。哲学自体が現実社会にあっては滑稽なのだ。
文学は迷路、深い森。