在日2世作家の李恢成をご存じだろうか。もう随分前のことになるが、小説「砧をうつ女」で芥川賞を受賞している。それで当時、評論集だったか、新聞の寄稿だったか、受賞にあたっての彼の感懐を述べた文章が、学生だった私の目に止まった。
評論は、長い日朝史の中で民族支配され続けた被支配国の民が、旧支配国の言語による作品で、旧支配国の文学賞を受賞すること、授賞されることの意味を掘り下げた内容だった、と記憶している。
詳細はもう頭から消えてしまったが、彼の評論は旧支配国・日本を攻撃する短絡的な内容ではなく、まさに受賞者として感想、思いを、ある意味淡々と述べたものだった。日朝問題が熱く語られていた当時、私はその極めて人間的な静かな対応と文芸的な内容に、さわやかな風に吹かれ、癒された思いを持った。
その評論で彼は、支配者の言語だからこそ、言葉を客観化し、文章を、言語を、吟味の上に吟味して書く、と言う意味のことを述べていた。実際、彼の文章は文法上もレトリックもきれいで美しい。まさに民族を超えたパラドックスのような受賞劇。印象深く私の脳裏に焼き付いている。
もう一つ、李恢成の言葉の記憶がある。
短編小説だったか、評論だったか。若い日、彼は東京の下町、高円寺の安アパートに住んでいたようで、毎朝、「あさり~、しじみ~」とアサリ売りが部屋の前を通る。だが、彼には「あっさり、しんじまえー」と聞こえる、という件。1960年代の在日二世の苦境を、まさに、あっさりと表現して、すごいなと感心したのだ。
思えば、今の私は隠喩・暗喩という〝そらして眺める目〟が未熟に出来上がり、文章から力が失われたようだ。直球もまともに投げ切らないのに、高度な変化球ができるはずがない。文章だけでなく、何事につけ若い日の粗野な直球勝負の日々が懐かしい。
さて長崎で生まれ、5歳の年にイギリスに行き、英国籍となったノーベル文学賞作家カズオ・イシグロ。彼の〝言語と文学〟の根底にあるものは何か。人種・国籍の違いはヒエラルキーを生じさせるか、個性にすぎないのかー。専門家には見えているのだろう。作品から、私なりのカズオ・イシグロ像を再生、魅力を探ってみたいーなんて、気負っております。