私の現役時代、仕事を通じてお世話になった元NCC長崎文化放送専務の加藤典興さんが先月31日、亡くなった。長崎新聞のおくやみ欄で知った。

 ほんの最近まで、地唄舞師匠の奥様、神崎秀弥さんのマネージャー役として手を携えるようにして教室に向かわれる姿を目にして、ほほえましく思っていた。

 具合が悪いとはご本人から聞いていたが、その後、ご無沙汰が続き、この「おくやみ」欄でご逝去を知ることとなった。

 告別式は執り行われたとある。ひと段落してご自宅へ焼香に伺う気持ちでいたところ、連絡があった。典興さんは出雲大社の神主の血筋。早速、神式の葬送儀礼をにわか勉強して出掛けた。

 遺影が笑い掛けていた。友人と一緒に撮ったスナップという。照れ気味の笑顔が、整然のいつもの表情だった。

 奥様から、晩年の壮絶な日常を聴いた。胃がんと肝臓がんと、化学療法の一進一退の日々だったという。ビールを楽しむ日もあったとか。

 

 そんな闘病中の昨年11月のある日、秀弥師匠を通じて懇意にしている能楽師、森本哲郎師の自宅舞台で、典興さん〝最初で最後の舞〟を披露する機会を与えられたという。

 謡曲「高砂」。大勢のお弟子さんら注目の中、地唄ではなく謡に合わせて舞を披露。

 秀弥師匠が脇で腕を支え、彼は座したまま謡いに合わせ、腕の動きで舞台表現したという。その時、胃に大きながんを抱えてのことだった。それでも、彼は面を正面に上げて緊張気味に所作を披露したという。

 秀弥さんのお話から舞台の様子を再現するとー

 高砂や、この浦舟に帆を上げて~

 しかし典興さん、扇子を膝にしたままで、上げる様子を見せない。

 唄い手の再度の この浦舟に~にも、やはり、じっと前を見つめたままで動かない。秀弥師匠「仕方なし」と観念した。「高砂」は、はや住吉(すみのえ)に、と先を行く。

 はや住吉に着きにけり~ 

と、この時、典興さん、右手の扇子をすっと突き上げて帆を表現した。あっ、と秀弥師匠も森本師も目をやった。

 〝この人は分かっている。体で分かっている〟。さて、住吉に着いてどこへ? 秀弥師匠は「突き抜けたな」と咄嗟に思った。そして森本師は「型のない型を見せてくれた」と、典興さん最期の舞台を評したと言う。

 社を引退後、秀弥師匠の付き人のような日常に加えて、自身も得意の空手の型をアレンジした「空手体操」や太極拳を公民館で教えていた。

 長崎の町中でおしどり夫婦に再々会っていたのはこのような時だった。

 

 典興さんとお会いしたのは約30年前になる。NCCに来られてすぐ、浦上川沿いに桜を植樹する「千本桜の会」で度々お会いするようになった。

 ウオークラリー「島原半島ツーデーマーチ」では二人、半日かけて雲仙温泉コースを踏破した。この時、典興さん、終盤になって足を挫いてしまい、私の肩に腕を掛け、完歩したのだった。この出来事を機に、お付き合いが深まったと記憶している。

 秀弥師匠に早くから「長崎に骨を埋める」と言っていた典興さん。発病後、帰京の勧めもあったが。やはり「長崎がいい」と言ってきかなかったという。   合掌