人気コメディアン、志村けんがコロナ禍で逝った。急な訃報に全国のファンらに衝撃を与えた。同年の私もそうだった。

 器用な人だった。笑わせる技がその心身から沸々と湧き出てくるソフトな人だった。

私がテレビを通じて志村けんに注目したのは1975年前後、小さな居酒屋で見たテレビバラエティー番組「8時だよ全員集合」でのこと。人気グループ、ドリフターズの舞台だったが、彼はまだ付き人だったと記憶している。

 その彼がチョイ役で舞台に出るようになった。ひたすら、いかりや長介さんらにいびられる役だった。いびられぶりのおかしさで子供たちの笑いをとっていたように思う。加藤茶ら大人気の先輩らも、どうにか彼を一人前の芸人にしようとコントのステージに引き出す。だが、彼は何をやってもスベってしまい、情けなさそうに頭をかいて苦笑いする。ドリフの面々は舞台袖に引き、こちらも苦笑で彼の所作を眺めていた。 

 あの日も志村はスベる寸前だった。客席の子供たちは、ちょっと静まったステージの成り行きをドキドキしながら見つめている。私もお湯割り焼酎を手に、さあ、もうスベることは許されないぞ、と固唾をのんでブラウン管に釘付けだった。いかりやたちも舞台袖で突っ立ったまま、彼の繰り出す、次の〝何か〟を待つほかない。

 困った志村。崖っぷちの心境だっただろう。白黒テレビの画面にも彼の冷や汗が見える。そこで彼は突然、爆発したかのように「ひーがーし むらやーま~」と、あの大技、古里の「東村山音頭」を叫ぶように歌い出したのだ。それも拳を握った腕を何度も舞台に突き刺すように上下させながら力いっぱい。「ひーがーしー、むらやーまあ!~」と大声で歌い、舞台床に向けて拳を何度も何度も突き立てた。

 彼がこの苦境をどう乗り切るか、舞台袖で見つめていた長さんら大先輩たちは〝スベり具合〟を楽しみにニヤリ。しかし、次第に会場の子供らが志村の音頭に声と手拍子を合わせ、わいわいと笑い出し、一緒に手拍子をせざるを得ない雰囲気。挙句、目を剥いて「おい、おい、やるじゃないかあ」といった表情で顔を見合わせた。

 この後、長さんか加藤茶か誰かが、この志村の畢生の大技を受けて舞台を繋いだのだが、誰がどのように繋いだのか、記憶から消えている。

 

 都会の会社に入ったのはいいが、田舎者の私に何ができるか。職場に居場所を見つけられないままにいた入社数年の私に、苦境を切り抜ける大舞台の現場を目の当たりにさせてくれた志村けん。これ以後、彼は破竹の勢い、ドリフの一員としてコメディアンとして大活躍を始めたのだが、私の方はというと…。

 テレビ画面とはいえ、その道の頂点を究める人の〝突破〟する現場をテレビではあるが目の当たりにした体験は、確実に私の生きる勇気となった。

 その小さな白黒テレビは、福岡市薬院にあった小さな小さな居酒屋「おかよ」でのことだ。5、6人掛けのカウンターだけの店。割烹着の似合う品のある女将と、後に職場の大先輩と夫婦になった粋で美人のおけいさんが切り盛りしていた。都市開発で当時の町筋も今は不明になり、店は早くに閉じた。志村けんさんが眠ると同時に、眠っていた私の記憶が呼び覚まされた。ありがとう、安らかに志村けん