NHK朝の連続テレビ小説「スカーレット」で思い出された感動の記憶をもう一つ。

 私は30代後半のころ、福岡県南部の農村地帯に住んでいた。福岡市内の勤め先まで車とJR(当時は国鉄)を乗り継ぎ、片道約2時間かけて出勤。夜勤の仕事に従事していた。

 退社時刻は午前零時前後。帰路は博多駅から長崎に向かうブルートレインに乗り、鳥栖で下車。車で夜の国道3号を走り、自宅に着く頃は午前2~3時になっていた。

 その国道3号の道々、カーラジオの深夜放送が私の相棒だった。森繁久彌による名作小説の朗読に聞き入った。「南総里見八犬伝」はまるで舞台そのものの語り。話の筋の展開に心を奪われ、赤信号に気付かないほどだった。

 そして水上勉の長編小説「しがらき物語」。森繁は、あの味わい深い声で陶工の孤独な営みと、陶工に相対して、ろくろを回す「ヒデシ」の女の哀しみを切々と、時には声を絞って語っていた。ついつい車を沿道に止めて聞き入ったほどだ。

 テレビ小説の「スカーレット」に「ヒデシ」は出てきたのかどうか? 水上は「ヒデシ」の表現を種々の文献に、カタカナはあるが漢字はなく、おそらく「姫弟子」だろうとしている。小説を読むと水上の推測がうなずける。

 物語では、深紅の腰巻をはだけさせて、ろくろを回すヒデシの艶な姿に、ろくろ師の意のままに日陰に生きる女の日々を表現していた。

 中でも、孤独な老陶工がヒデシと夜の営みをする場面が今も脳裏にある。

 陶工は「わしゃ不能なんや、わしの助平は頭だけや、頭の中に虫が棲でいての、それがこんなことをしよる」とヒデシに悔しそうに誤り、甘える。森繁は声だけで、この男女の狂態の場面を表現、迫真の演技並みの感動を伝えていた。

 この新潮社版「しがらき物語」。元々、昭和39年に初版が出され、私の手元には古書店で買い求めた昭和46年の三刷り。箱入りで布張りの豪華本だが、帯に定価400円とある。

 今回、読み直して、老陶工がヒデシをいたぶる場面の台詞が、意外に説明調だったことに気付いた。作者・水上の一人称「私」あるいは「作者」による語りだからか。森繁のあの迫真的語りは、ひょっとして森繁自身の本心の吐露だったのではないか? などと下衆の勘ぐりをしてしまった。誰かに宛てた森繁のメッセージ? と思わせてしまう。名優の台詞となると、こうもリアリティをもって迫ってくるものかと、今にして思う。 

 

 名作小説の朗読は出勤時の昼間のラジオ放送でもあった。NHK「明るい農村」の前か後だった。私が一番に感動したのは橋爪功による有明夏夫「俺たちの行進曲」。〝文章はリズムだよ〟と橋爪は言っているような語りだった。